プラトーン『国家』第10巻に有名なエールの神話。エールは戦死し、10日目に(他の死体はみな腐敗していたのに)彼だけは腐らずに収容され、運ばれ、死後12日目に火葬にされんとして薪積みの上で生き返り(ここでἀναβιόωが使用)あの世で見たことを報告した。その内容は興味深いが今は問題としない。
→この期を境としてヘルメス-メルクリウスは地上的啓示神にして金属の精という二重の性質を帯びるようになり、いわばヘルマプロディトス的存在と考えられるようになったのである」(ユング『心理学と錬金術』)。
「哲学の卵」の中にメルクリウスが太陽と月の上に立っている(『沈黙の書』)。
しかし、大河はメソポタミアやインドにしかないのではない。エジプトにはナイル川がある。が、エジプト人は、どうやら、魚に対して禁忌の感情が働いたらしい。一つには、細切れにされたオシリスの一部(ペニス)を食べたという神話があり、一つには初代の王ナルメルというのはナマズの意らしいのだ。
ヴェーダの民は、「草原で遊牧的な牧畜の生活をしていたインド・ヨーロッパ語族が共有していた宇宙意識」つまり「天的な宇宙観を運んできた」。しかし、文化=宗教葛藤は一方的であることはできない。天的宇宙観が大地的なインダス文明の宇宙観と遭遇したのである。
人身供犠が残虐非道なものに変化していった契機を紀元前13世紀頃の気候変動にみる考えがある。気候の悪化→民族移動→大地から天への信仰軸の転換→一神教の出現……「人口の集中は同時に限られた資源のなかで生きていくために、きびしい社会的相互規制を必要とするようになる」
要は、「生理は病気の一種だから……」という「心やさしき女性差別者」を輩出したけれど、月経不浄観は揺るがなかったということだ。だからといって「運動」の失敗だったとは思わないけれど。とはいえ、今もって生理中はお宮参りはいけないのかという相談が跡を絶たないとはネ。
日本神話で云えば、例えば豊玉毘売(トヨタマヒメ)は(その正体が何であれ)人魚の一種であるはずだが、人魚とは呼ばれない。なぜなのかはよくわからないが、日本では人魚→妖怪という想いが強いのかもしれない。しかし、その変化はそう新しいことではない。
敢えて説明しないのは、(説明すべき事柄を本当に知らない場合もあるが)説明すると差し障りがあるからである。今の場合、図像を見れば、はは〜んと気づくであろう。1匹の仔羊も見棄てないというあのイエス・キリスト像(ルカ15:1-7,マタイ18:12-14)とそっくりである。
このことは、繭を熱水に浸してほぐれやすくして、糸を引くという方法をすでに知っていたことになる。ということは逆に、この神話が弥生時代を遡るものでないことを想わせる。『野蚕録』にはじつに22の工程が挙げられているが、中心は、やはり、繭を熱水に浸すことである。
翻案として見ると、「金色姫伝説」と「馬娘婚姻譚」との、作品としてのデキは歴然としている。これが、金色姫伝説があまり世に知られない理由であろう。
金色姫伝説に馬は出てこないが、やがて馬→馬鳴とも関係づけられる。馬鳴は男性のはずだが、養蚕の道具をもった菩薩像に。
つまり、月下界からの帰昇と降下、冥界への下降と帰還はちょうど鏡像の関係にあるということであるが、このことに着目した論考を知らぬ。錬金術であれカバラであれ、諸々の秘教らしい秘教は、上と下、初めと終わり、生と反……の合一を奥義としているにすぎないのにである。