例えばクシャナは、一度はナウシカに己と相容れぬ部分を見出だしながら、仇のあえない最期で生きる意味を見失い、流浪を重ねた末に、ナウシカにはなれずともその指し示す道=王道を歩む決意を固めるに至ります。
トルメキアではヴ王の死とともにクシャナが「王道」への決意を固め、土鬼ではシュワ消滅とともに神聖皇帝なき国作りへ皆が向き合うようになり、ミトや蟲使いたちは旅の終わりを迎え、アスベルはケチャとボーイミーツガール…正にナウシカを囲んで踊るがごとき大団円です。
第二に、映画版との違いとして、この場面が「ナウシカ自身にとっても」大団円にならなかった点があります。即ち、王蟲との心通う時間はほんのひとときであり、その後王蟲は急に心を閉ざし、北=故郷に帰れとナウシカに告げて去ります。このことは当然のようにナウシカを不安にさせました。
そしてまたユパがクシャナに託す新たな指針が「王道」なのですが、その内容についてユパ自身が示唆するところが興味深いところです。即ち「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」のだと。
クシャナ殿下、専用曲とともに花道からサパタへ。出迎えるセネイに「どうした、妾は戻って参った」。続く歓呼三声、ワタクシはじめ全国幾千万の殿下親衛隊志願者には堪らないサービスシーンが満載ですヨ!
ではそれはどんな教義だったのか?これは以前も考察しましたが、ナムリスの告白から伺うに「より良い来世を迎えるために現世をよりよく=体制に従順に生きよう」だと思われます。「死ねば必ず生まれ変わる」ことの強調は、よりよい来世の為の現世における徳業累積への要請を正当化するからです。
この単行本追加部分(4巻81頁下半分~83頁上半分)は、出陣前に暇乞いに来たクシャナを、母がそれと認識出来ず、「敵」から娘(実際は人形)を守ろうと敵意を顕にするという、かなり切ない場面です。よりによって、母から仇と思われるとは!しかも母はまだ自分(と思い込んだ人形)を愛しているのに!
これらは一見、いずれも「完璧な計画の産物」に見えますが実はその「出来」には大きな差があります。まず、一番完璧なのは「庭園」です。外界から完全に遮断され、かつ外界の支援なしに自律して秘密裏に目的(浄化世界のための種子保存)遂行が可能だからです。
シュワの墓所は三巻冒頭、ユパから「神聖皇帝の墓所でもある大僧院」として、またその奥に旧世界の技を遺す地として初めて言及されます。また、サパタで肉体劣化が進む皇弟についても側近達が「早く墓所に戻らねば」と言及しています。