赤塚不二夫先生が、よこたとくお先生と住んでいた小松川の下宿は、都電・西荒川駅(現在廃線)の真ん前でした。
そこには長谷邦夫先生や、つげ義春先生も通ってましたし、石ノ森章太郎先生も短期間暮らしてたので『プレ・トキワ荘』といえる存在でした。
#トキワ荘
当時の赤塚不二夫先生は描きたい漫画が描けず、不向きと思いながらも貸本むけの悲しい少女漫画を描いてスランプに陥ってました。
その貸本の仕事を赤塚先生に教えプロデビューのきっかけをつくったのは、当時の友人つげ義春先生でした。
#トキワ荘
石ノ森章太郎先生はトキワ荘時代から仲間うちで一番の売れっ子でしたが稿料は本や高価なステレオやレコード代に消えて家賃も払えなくなるので、寺田ヒロオ先生からよく借金をしました。
そして多忙な為に盟友・赤塚不二夫先生にアシをしてもらってもいました。
#トキワ荘
トキワ荘話④
手塚治虫先生の次にトキワ荘に住んだ漫画家は『テラさん』こと寺田ヒロオ先生。
電電公社(現NTT)退社後上京。3ヶ月余りの下宿生活の後に手塚先生と同じく『漫画少年』誌・加藤氏の紹介で1953年(昭和28年)の大晦日にトキワ荘に入居しました。
#トキワ荘
石ノ森章太郎先生が入居したトキワ荘の最初の部屋は19号室でしたが、西日が当たる部屋でした。
徹夜後に朝方に寝ると午後の暑さに眠りを妨げられる為に、石ノ森先生は後に向かい側の17号室に移りました。
#トキワ荘
手塚先生の新たな仕事場『トキワ荘』を紹介したのは学童社『漫画少年』誌の編集者・加藤宏泰氏。
その加藤氏は昭和28年3月から新婚の妻とトキワ荘で暮らしはじめてました。
つまり時々雲隠れする手塚先生を同じアパートの住人にして囲いこむ思惑があったのです。
#トキワ荘
そしてこの日は隅田川の花火大会という6人の新人漫画家の前途を祝すような印象的な日でもありますが、
なぜか(たぶん物語の流れ上の理由でしょうが)『まんが道』では9月の出来事とされ花火描写は無し。
花火より二畳間の寿司づめのほうが印象的だったのかも?
#トキワ荘
『ナマちゃん』掲載の『まんが王』を見た赤塚先生は驚きました。
『連載漫画』と書かれてたからです。
おおらかな時代のサプライズ。
これが『ギャグ漫画家赤塚不二夫』のデビューでした。
因みにその時の編集が後の少年チャンピオン鬼編集長・壁村耐三氏です。
#トキワ荘
コッペパンではなくてフランスパンなんだ🥖
ではこれは正解だったのね。トキワ荘近くのイタリアン、リベッチオの「トキワ荘青春セット」
#グレーテルのかまど
#石ノ森章太郎
#トキワ荘 https://t.co/yjwEUDOo3t
水曜教授(@suiyou_do)さんがご紹介するのは、子供のころ何度も貸本屋さんで借りたという #寺田ヒロオ『スポーツマン金太郎』🐻
『まんが道』でもお馴染み #トキワ荘 のキーマン「テラさん」の作品です。超〜貴重なおまけにも注目…!
🔗https://t.co/aAjlc6q72N
#懐かしマンガの思い出 #マンバ通信