賈復が負傷した敵は偃王尹尊でなく鄧奉で、劉植は密県の賊との戦で討死しており(と言っても後漢書からは偃から密に返す刀で進軍の蓋然性が高く、群雄劉茂の影響が高い地なので断言は不可だが)、陰識は尹尊討伐後に軍役から一度退いているので、↑4コマ目には本当に大した含意やこじつけ意図はないです 
   鄧禹が先生と劉秀に呼ばれたのは史実通り(↑1枚目は鄧禹が劉秀に仕える際の実際の後漢書の言の抄訳)だし、皇帝の師"先生"太傅となる明帝の時代にも、彼に仕えるのでなく、先帝である"光武帝の臣"として、唯1人賓客という立場に置かれ丁重に扱われたのが、劉秀・鄧禹の関係を感じれるってネタです(早口 
   RT> 動画を見て、改めて"光武帝"の諡号、文帝や宣帝、章帝、桓帝らと並べると漢帝国の皇帝の諡号感があまりないなって…
劉秀の功臣等を粛清しなかったのも内需滋養もそうだけど彼の性格面も大きく寄与してるだろうな〜と思いました(小並感) 
   4、5歳ぐらいの子どもの姉妹が躊躇いもなく、玄人風なおじいちゃんでも拒むような超冷たい水風呂にザブンと入ってきて、「年端も行かぬ子どもが…我が…特技水風呂ノンタイム入浴に…入門してくるとは……‼︎」ってなった(小並感)