鄧禹と呉漢は劉秀の両壁であり、鄧禹は劉秀即位時は遠征して手紙によって帝位登基を知ることになるのですが、遠くにいながら同じように思っていてほしいなというアレ。
冕服・冕冠は、前漢の劉邦〜光武帝まで着ていない服です。初めて劉氏冠の皇帝姿(リアル頭身)描けました。
学習漫画でよく題材にされる光武帝の金印下賜を自分なりに描くのが一つの目標だったんだよな。(それぞれちょっとずつ参考にした)
2023年の終了で昆陽の戦い・王莽の新滅亡2,000周年が終わるけど、来年の2024年は、更始帝、長安遷都/更始帝乱政により隗囂、劉永、公孫述ら蜂起、再割拠/王郎との河北平定戦終了/劉秀、蕭王就任/銅馬賊降伏→糾合/(後漢書に言う所の)更始帝期の赤眉の乱勃発/鄧禹の百万征西軍出発の24年から2000周年か
された。
明帝・劉荘の太傅は張佚であるが、少傅は桓栄であり、教育主導は桓栄が担ったように後漢書では記述される。光武帝が天下の争乱を収束後、劉荘から戦術を問われた際に「戦争のことはお前が知る必要はない」と断ったことは、その後の桓栄の皇太子教育方針の趣旨・計画の基となったろうと説く。
今やってる歴史探偵の近藤勇の回の再放送でおもむろに近藤勇の書簡に「大樹」(=徳川家茂)が出てきて頭の中の大樹の語源・馮異が爆発するなど
劉縯と劉秀兄弟の姉、湖陽公主・劉黄さんはこの時代近辺には本当に珍しい馬武と並ぶ奔放な性格で、トラブルメーカー的な方面で面白いハナシが多い人なので普通に推しです。
後漢書の編纂者、范曄は宋書で「曄長不滿七尺,肥黑,禿眉鬚。(范曄は身長が七尺に満たず、肌黒で太っており、眉とアゴヒゲがなかった)から、以前の↓バージョンからキモチ太らせて肌は濃い目、眉なしに変えました。
范曄の額の傷痕は同列伝「母如厠產之,額為塼所傷,故以塼為小字。」から来てます
三国志演義だと劉備や曹操、劉協及び劉曄等ではなく、1番光武帝から加護+三国志最推し武将認定されてるの孫策なんだよなぁ
(毛本版三国志演義第十五回「太史慈酣鬥小霸王 孫伯符大戰嚴白虎」の(孫)策曰:「吾夜夢光武召我相見,當往祈之。」vs太史慈一騎討ち直前)
劉秀、孫策に劉縯を感じたのだろか🤔
写真上げるの如何なものだろう…と悩みつつ、時空旅人の全編にわたる史記特集が横光史記のダイジェストと化してて最の高すぎたのであった…☺️
ひとまず好きな重耳だけ上げるけど岡谷さんのインタビューだったり本気で良かったです〜(指摘いただいたら消します…