今日が呉楚七国の日だから昔何か呟いてたなかと思ったらコレしかありませんでした(小声)
乱の要因の1人鼂錯が文帝に命じられ、断絶しかけの儒教を国家事業出張研修先の人物が伏勝(伏生)で、彼の末裔が光武帝の大司徒伏湛と後漢末の伏完で、何より彼自身が「今文学」の開祖で漢に多大な影響を与えました https://t.co/HzNftNm6uQ
「後漢最初期・匈奴対応組」(再掲)
コミュ障だけど好きなこと(主君の光武帝 劉秀のこととか)はとても早口になりそうな呉漢と馮異コンビ好き。
お茶の水女子大 齊藤 幸子「後漢の太子二傅と諸侯王の傅」(2018)読了
武帝期以前では後見者的位置とし太子の教育に重きを為してない太傅・少傅であるが、徐々に儒学者がその役職に任用されると教育方面にも力が向く。
その後、後漢となり班彪の上言を光武帝が納れたことで、二傅の要件「名儒」が明文化
斉武王劉縯と光武帝劉秀兄弟、もし様々な要素が微妙に違っていたら宋の太祖趙匡胤と太宗趙匡義兄弟になってたかもしれない(吉田松陰が言及)。
劉縯という強烈な個性がなければ劉秀が世に出ることもなく、劉秀の欠点を補ってくれたいい兄さんでまちがいないと思います😌