たとえばこのような視点で「戦争に突入した日本人」というのを見る。しかしおそらく、このどこにも当時の我々の大多数はいないのだ。コロナ渦中のオリンピックがそうであるように。状況の中にあって思うことはあれど、自ずから口をつぐまざるを得ない。これを我が身に思い知らされるのが地味に沁みる。
今思うと「セカンドマン」の実にビシっとした完成度の高さって学年誌連載だったのが大きいのかな。描き飛ばすマンガの対極にあって「うかつなもの見せられん」みたいな緊張がある。藤子不二雄はその権化みたいなところがあるけど。
「男の条件」の男谷草介がなぜ「キリストみたいな大男」と描かれたのかもう少し考えてみるべきだと思う。自分はそこに梶原一騎による「天地始之事」を見る。遠い遠いトキワ荘で、全ての漫画家の罪を背負って消えていったある男の伝承が、変容を重ねて劇画世界にまで伝わっていたのではないか。