李徴の声は叢の中から朗々と響いた。作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か欠けるところがあるのではないか、と。
こういうのも、記号的表現であるのはもちろんだけど、描き手の内面の発露なんだよな。 この髪の毛の汗はもちろん目には見えないが、描き手の「頭皮が発汗する思い」「汗が体表を流れる、滴る思い」の再現であり、それを共有しているのだろう。
「招(よ)ぶ」は、これで覚えたガキも多いのではないか。諸星大二郎は少年誌でこれをやってしまう。一方で小池一夫は青年誌で石碑に「景教に至る」と漢字かな交じりでわざわざ彫らせる。天才とプロフェッショナルの、それぞれのスタンスであろうと思う。