大正9年夏、芝浦埋立地一号地を利用した「芝浦納涼遊覧会」というイベントが行われた。7月24日付『都新聞』の「涼しい郷へ」と題した納涼特集記事に場内の凝った噴水が載っている。ささまざまな余興や設備が用意され、その一つとして「八幡薮」があった。その委細が記事にないのは惜しまれる。#噴水史
明治28年10月22日、京都で平安遷都千百年紀念祭が始まった。会場には同年の第四回内国勧業博跡地があてられている。間がないことも作用したのだろう、同日付『日出新聞』の場所割を見ると博覧会時と同じ慶流橋を渡った場所と元美術館前に「噴水」とあり、博覧会の噴水を残したものと思われる。#噴水史
明治33年2月10日付『都新聞』に明治31年の東京市中での水道給水開始に合わせ創業したという東京給水社の広告が載っていた。量水器や給水管の設置工事を手掛けたようだ。給水の用途として「噴水」も挙がっている。#噴水史
明治39年6月10日付『都新聞』、赤十字社の総会が上野公園の博物館内で挙行されるという記事の挿絵が、当時の構内の様子を伝える貴重な情報になっていた。「噴水」の二文字が確認できる。#噴水史
明治43年7月31日付『神戸新聞』、夏場の水不足で節水が呼びかけられる一方で、噴水などにドンドン使い贅を極める奴がいるという批判は神戸に限らず各地で見られる。#噴水史
明治16年前後の京都の料理屋の噴水。一枚目「生洲御料理 さの新楼」に関しては「その頃としては珍らしく庭先に噴水をこさへたり、菊を作つたりとてもモダン的な営業法だつた」と振り返る新聞記事が昭和3年に出ている。同時代に近い言及した資料が欲しい。二枚目の「吹上」はまだ手掛かりなし。#噴水史
花月園「美少女が噴水に踊るウォターショー」S12.7、噴水を舞台装置として使ったこうしたウォーターショーの興行はいつ頃まで遡れるだろう。#噴水史