大正14年8月19日付『都新聞』「広島の女王」北田てる子こと大西卯三郎※のその後を伝える。金銭トラブルで執行猶予判決を受けたのち、新派の一座に請われ女形として舞台生活に入ったとする。
※『変態性格者雑考』は記事と細部が諸々異なり本名は大北小一郎とする。仮名表記か。出身地名も伏せてある。 https://t.co/qYq42grvkQ
気になる展覧会:弥生美術館「伊藤彦造展―美剣士の血とエロティシズム」2025年9月20日(土)~12月21日(日)https://t.co/BdCkwRlMuh
大正14年4月5日付『都新聞』「お待兼の冷しコーヒー器が出来ました」との広告があった。いつ頃からどのようなスタイルでアイスコーヒーを飲む文化が日本に出来たのか、こういうところから気になってくる。
甲府の穴切遊廓での張見世廃止、写真見世の導入について伝える。大正14年2月9日付『都新聞』、反対派からの妨害だったのか、写真をインクで汚す輩が現れたため楼主たちが交替で見張りを務めたという。
大正14年1月31日付『都新聞』関東大震災を契機として吉原遊廓では写真見世が禁止されていたのか。遊廓側からの働きかけで2月1日から条件付きで写真掲出が再び認められたことを報じる。警察は何を懸念していたのか。なぜこの条件なら大丈夫なのか。いろいろと気になる。
大正7年10月10日付『新愛知』市内附録、名古屋の大須にカバがやって来た。記事に興行師の記載はない。ソウルの動物園、大阪のルナパークで飼育された後、巡回興行に就いたようだ。「生きて居る!!」との惹句の裏に、当時は恐らく剥製で珍しい舶来動物を見せることも少なくなかったのだろうと推測する。
大正5年12月10日付『大阪毎日新聞』朝刊、公衆電話がかつて「自働電話」と呼ばれていたのは有名なところ、ここではその名前が体を表していないことに電話局が困り「公衆電話」とでも改称しようかと言っているとしている。「公衆電話」という改名案がこんな時期からあったのか。
大正5年12月10日付『新愛知』いま全盛の福の神、ビリケン君に代るキユーピー君。キューピー人気がこの年春から名古屋にも到来。信仰というほどではないライトな福神として「新奇を好む芸妓屋の神棚に祭られたり」「中学生抔の机の上に飾られ」たりから日本の生活空間に入り始めているのが大変面白い。
明治45年3月10日付『東洋日の出新聞』(長崎)「王冠口新形瓶アサヒビール」、「従来ノ木栓ヲ廃シ王冠口トナシタレバ」、瓶ビールは王冠の時代へ。
明治43年4月20日付『横浜貿易新報』(記事・広告とも)、前年から霧島の展覧も始めた名古屋の菊園、奥村黄花園はこの春、東京日比谷でも霧島の展覧を行っていた。場所は「日比谷公園前旧中山侯爵邸跡に館を新設」とある。