大正5年12月10日付『大阪毎日新聞』朝刊、公衆電話がかつて「自働電話」と呼ばれていたのは有名なところ、ここではその名前が体を表していないことに電話局が困り「公衆電話」とでも改称しようかと言っているとしている。「公衆電話」という改名案がこんな時期からあったのか。
大正5年12月10日付『新愛知』いま全盛の福の神、ビリケン君に代るキユーピー君。キューピー人気がこの年春から名古屋にも到来。信仰というほどではないライトな福神として「新奇を好む芸妓屋の神棚に祭られたり」「中学生抔の机の上に飾られ」たりから日本の生活空間に入り始めているのが大変面白い。
明治45年3月10日付『東洋日の出新聞』(長崎)「王冠口新形瓶アサヒビール」、「従来ノ木栓ヲ廃シ王冠口トナシタレバ」、瓶ビールは王冠の時代へ。
明治43年4月20日付『横浜貿易新報』(記事・広告とも)、前年から霧島の展覧も始めた名古屋の菊園、奥村黄花園はこの春、東京日比谷でも霧島の展覧を行っていた。場所は「日比谷公園前旧中山侯爵邸跡に館を新設」とある。
明治43年7月26日付『横浜貿易新報』、狂仙「御殿場より/奇抜な広告」なる記事に「棄てられた野の石は『咳止飴』の広告を白く塗られてある」とあるのは、大正5年の『都新聞』で富士山の至る所にあると指摘された屋外広告と同じものだろう。白ペンキで路傍の石に描き付けたようだ。探せば写真があるか。
気になる展覧会:神奈川県立近代美術館鎌倉別館「木茂先生の挿絵考 併陳:近代の洋画」2025年4月26日(土曜)-7月21日(月曜・祝)https://t.co/admHdOa4J9
字が潰れて読みにくい箇所の多い明治40年11月5日付『大阪朝日新聞』の「菊の栞」には鳴尾百花園に竹田良助作の「造人形」があったと読める箇所がある。同11月21日付紙面、大阪道修町の神農祭の記事にも「造物」の制作者として竹田の名がある。当時人形師としての引く手あまたの人物だったのかしらん。 https://t.co/H1CIGPSvm1
大正13年3月1日付『大阪時事新報』朝刊、神戸の動物商("日本最古の動物商人")中田和平が南米由来の干し首らしきものを所有し、巨額の動物取引の場で「間違ったら首を差上げます」と軽口のネタにしていたらしい(笑)その首を譲り受けたという豊橋の市会議員片山竹五郎も興行界隈の人物だったようだ。