弘治3年(1557)12月の傘連判状に署名した安芸・備後国衆らをまとめてみたけど、宮景盛ってこんな北側だったのか・・・そして渋川氏は結構真ん中やってんな
永正17年(1520)、赤松義村・小寺則職の軍は美作国にて浦上村宗・松田元陸・宇喜多能家の軍に大敗、逆に播磨に侵攻され乱暴狼藉を繰り広げられる
赤松義村の後見人であった洞松院(細川政元姉)や松御料人(先代赤松政則の娘・義村の正室)までもが義村を見限り、赤松義村は強制的に引退させられる
次回いよいよ有名な安芸・備後の傘連判状が登場
但し、この書状は安芸国と備後国で背景が結構ことなります
第四次門司城の戦い(八幡表合戦)の図だが、やはり大友軍の面々で確定できるのが少なすぎる・・・
朝廷における儀式はムラハチ・トラップの宝庫
古の知将モトナリ・モーリはオオウチ・シャドーギルド、オオミヤ=サンのインストラクションを経て無事カンイ・ジツ”従五位下”をマスターする
#過去絵で食ういいねは旨い
三月十八日、義稙様至ーーー被移御坐ニ付テ、於貞陸亭、高国、畠匠(畠山義元)、大内左京亮、畠山勝仙院御談合之儀アリ、仍終日大御酒、・・・・
(伊勢貞助記)
永正10年(1513年)3月17日、将軍義稙(義尹)は #大内義興 #細川高国 への不満を理由に、甲賀へと出奔しました