あの流れを無我が全てメイクしたと考えるのは無理がありそうでよかった(よかった)けども、
「どっちの流れにもない傍流存在を蓋然的要素としてブチ込んでみる」は無我の常套手段なので依然警戒は必要なのよな…。
メタ的に「流れの虚を突く」のが第一部のラストだった事を考えると、無我が当初からバーグ先生を最終兵器にするつもりだった可能性が普通にあるのが無我の無我たる所以だが…。
稀男がバーグ先生を好んでるの、強大な胎界主は流れに呑まれない存在が好き、という文脈化と思ってたけど「自分の流れ(運ぶ力)が絶対じゃない」事を確認して安心してたのか?
まぁ結局は胎界主なのに悪魔の組織に片足突っ込んで「煩わしい」試練など起こさずに生存を続けたい、というのが胎界主というより一人間として「サビてる」という事なんだろう。
#天肢の壺の最大の弊害が創造性の喪失なのかもしらん