「年越しそば」を食う図。
(参照:1793年版『どうけ百人一首』、新島繁『蕎麦の事典』講談社学術文庫、P251)
「民主国家において政府(政権)は選挙によって取りかえ可能であり、それは国家の全体ではなく一部である。ある政府の一つの政策を批判することを反国家(日本で言えば「反日」)であるかのように言い募る傾向が一部にあるが、これは誤りだ。」(上丸洋一『南京事件と新聞報道』朝日新聞出版、P439)
「失うもののない人と争ってはならない。とうてい勝ち目はない。相手はすでに羞恥心を含めて何もかも失っているから、もはや何の憂いもない。だから、人を人とも思わぬありとあらゆる手を使う。あなたの価値ある名声をそんな恐ろしい危険にさらしてはならない。」(『賢く生きる智恵 新版』P65)
「親鸞は自分の身につけたあらゆる体験と知識をかたむけ尽くして念仏の救いを説いたのであったが、念仏を信ずるか捨てるかの最後の決断は、相手の自由意志にまかせるといった布教態度をとった。親鸞とて、念仏を他の人から、法然から強制されて信じたわけではない。」(『親鸞』吉川弘文館、P59)
「眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう。」(寺田寅彦『柿の種』岩波書店、P28)
#柿の日
「駅の本字は「驛」であるが、本来この字にはまず早馬の意味があった。鉄道や自動車が発達する以前は、馬が最も速い交通機関であったから、緊急通信には早馬を走らせたもので、古代には「馳駅」(早馬を走らせる)とか「駅使」(早馬に乗った使)という言い方がされている。」(木下良『道と駅』P11)
岩波新書で妖怪画集を出すことについて。その意義を語る水木しげる。
(参照:村澤昌夫『水木先生とぼく』角川文庫、P194)
「売れる、人気がある、注目されるということを望んでいないものはいない。圧倒的大多数はそういう機会に恵まれない。まれに恵まれても、瘦せ我慢しきることができる人はさらに少ない。人間はみんなとてもさびしい存在だから、しかたがないのだ。」(三木卓『若き詩人たちの青春』河出文庫、P123)
「苦しみの総量の増大が、さまざまな対象への攻撃や呪詛を生んでいる。比較的苦しみがすくなくてすんでいる者たちは、自分の生活を守るために、そうした現実からできるだけ身を引きはなして、遠巻きにやりすごしている。」(本田由紀『軋む社会 教育・仕事・若者の現在』河出文庫、P274)