賈復が負傷した敵は偃王尹尊でなく鄧奉で、劉植は密県の賊との戦で討死しており(と言っても後漢書からは偃から密に返す刀で進軍の蓋然性が高く、群雄劉茂の影響が高い地なので断言は不可だが)、陰識は尹尊討伐後に軍役から一度退いているので、↑4コマ目には本当に大した含意やこじつけ意図はないです
馮異と劉縯の話もだが、新末後漢初で最も混戦し経緯が後漢書の光武帝本紀と各雲台二十八将列伝で散りばめられ、また、移動や地勢要素が多く当該時代で特に地理把握が重要なのに難しい、西暦23年〜24年(更始元年〜2年)劉秀の河北行=対王郎戦(決着の邯鄲の戦いに至るまでの戦争)を地図を使いまとめたい
光武帝はやたらも家臣をべた褒めしまくりですが、側近・片腕は大きく鄧禹・呉漢で意見が分かれます。
(そんな人だから仕えてんだよなぁ…)
やたらと家臣をべた褒めして厚遇しまくる劉秀自身も決めかねるのでした。
三国志祭(11/3)と脳内コラボ考えたけど、
更始元年10月丸々
(西歴23年11月2日~12月1日)
劉秀(のちの後漢の光武帝)が河北へ。王覇の疾風勁草や鄧禹とかイベント色々(劉秀独立二千周年)
更始元年12月壬辰
(西暦24年1月16日)
王郎が河北にて「前漢成帝ご落胤・劉子輿」自称、反劉秀の挙兵
ぐらいか.
腹ごしらえをしたので、去年は営業時間前で散策できなかったハーバーランドに行くゾ〜
それでは一旦さらば、六間道…!(今日の銭湯は元町商店街にすっぺ)