構築主義的ジェンダー観に懐疑的で性役割の意義を認める保守派といえどどこまで覚悟ができているか。ベラルーシ人の元恋人から「男が自身の快楽を追求しても得られるのは空虚な幸福感だけ、男の真の幸福は女子供を幸せにすることを通してしか得られないのよ」と言われ古典的な男をやるのも辛いと痛感。
「振られた仕事について鬼催促されないのは重要/緊急でない証拠だから放置でいい」的な考え方がまかり通る、仕事しないのは当たり前の夷狄の地で働いてたら、「人々の間にあるのは優劣でなく差異だけ」みたいな毒にも薬にもならない話なんてちゃんちゃらおかしくなる。これが現実を知るということ。
グルジア語をかじってたらタイの日本語学習ニキと同じ気持ちになった。ვ, კ, პ, ჰ, ცとか、ქ, ე, მ, გ, ბ, ტ とか全部同じじゃないですか!(一夜漬けである程度文字を覚えたつもりでも現地で教科書と違うフォントを見るとあやふや)
何の教訓も得られず成長の機会にもならない単なる厄災や理不尽も当然あるが、一般に困難や失敗からは何かが得られるものだという前向きな虚構を予め張り巡らせておいた方が社会にとっては有益なんだろうな。人々がリスク回避ばかりに腐心するようになっては社会が回らない面もあるだろうし。
黒人奴隷が逃亡するのは精神病で、鞭打ちで治療するというのがある時代、ある地域での「学問的知見」だったわけで、現在「正しい」とされている事物がどれだけ正しいのか考え相対化する視点はあるべきだし、それを許さなかったとしたらカルト的では。
研究者に読んだ本の数なんて聞いても「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」と返されるだけだろうな。