なんかTLに懐かしい「名前を言ってはいけないセンセイ」が出てきたと思ったら、タイマンでボコボコに論破されていて、あの恐怖の公開お手紙は幻想だったのかしら…と拍子抜ける。そんな秋の夜
#何か見た
#大河べらぼう 世界の定信公は「推し」の春町さんを呼びつけて(何なら呼びつける名目で「推し」に一目会いたくて)ちょっと凹ませれば事足りたかもしれないが…戯作に命を懸ける春町先生にとって、それは多分打ち首より辛い「晒しもの」でしかないかと。この辺ちょっと『花の慶次』を思い出す。
この事を端的に示すのが、精神世界(?)でミラルパと出会ったナウシカのミラルパ評です。いわく「この年寄りと同じように自分は虚無に食われたのだ」と。上人様を心の内で「虚無」にしてしまったナウシカが、ミラルパという別人の中で自ら「虚無」にされていたとは、何という皮肉でしょうか。
恰もミラルパによる統治も民衆教化も何の意味もないと嘲笑うような「青き衣の者」の登場と、ソレに狂喜喝采する土民達…ミラルパにとっては幾ら殺しても殺し足りない程悪かったことでしょう。それこそ「大騒ぎして八つ裂きにする」程に。それは傍からみれば滑稽なほど空回りしていたのですが…
帝国統治も僧会による教化もミラルパのが100年取り組んできた労苦です。まして「主観的には」民の為に心砕いてきたミラルパにとって、邪教として打ち倒した筈の「青き衣の者」が民の希望として何度も立ち現れるのは、耐え難い苦痛だったのではないでしょうか。
何ヶ月ぶりかの唐突な漫画版 #ナウシカ 考察は土鬼皇帝ミラルパがなぜ「蒼き衣の少女」ナウシカをあれほど憎悪し、とりわけ死後にはー自らを謀殺した兄ナムリスを差し置いてまでー霊となって付け狙ったかを考察してみたいと思います。