自民の不記載は「裏金・脱税・犯罪」
自分の不記載は「いろいろなミステヘペロ♪」
…通らないだろう、いくら何でもそれは。 https://t.co/ixlANLojSr
そういうのを「オキモチ至上主義」といいます。今の能登は復興途上の被災地であり、貴方の根拠なきオキモチ表明のど自慢の会場ではありませんので、そういうのは他所でやって下さい。 https://t.co/ZwEFZaCbgp
うそーん…最近のパソコンてTV視聴やBlu-rayに対応「しなく」なってますのん…そっちはTVでと。全部PCで出来るのが便利なのですが(何とか見つけれたが、次の買換ではもうダメそう)
そう言えば、セリムはナウシカが看破した「真実」を同胞たる「森の人」達には話していないんですよね。墓所の主と王蟲の体液が同じ=両者が同根であることも。それは、ナウシカとの絆という以上に、やはり他の「森の人」にこの「真実」は耐え難いという判断があったのではないか。
#ナウシカ https://t.co/2reA82MXuq
③「墓所」の主の籠絡に抗った結果、精神攻撃で自我を破壊された:最後はヒドラのエサに…?(´;ω;`)ブワッ
「庭園」自体隠されており、必ず遭遇すると限らない以上、シュワに辿り着いた者は居るでしょう。その場合、考えられる「末路」は以下の通りかと。
①神聖皇帝により邪教徒「青い衣の者」として処刑された:神聖皇帝の権力が確立した二百年前より以降は多分ほぼこれになりそう。
そしてこの点こそ、ナウシカが「森の人」と完全には一体化できない理由となります。彼女は、腐海の「外」に余りにも多く愛するものがあるのです。その意味でナウシカと「森の人」セリムの関係は、『もののけ姫』におけるアシタカとサンの関係を彷彿とさせます。
一方、ナウシカは腐海「を含む」広く世界を愛し、また様々な試練を経てきたこともあり、たとえ人造由来でもその「偉大さ」を否定しません。彼女の「どんなきっかけで生まれようと生命は同じ。精神の偉大さは苦悩の深さで決まる」という台詞は蓋し至言でしょう。
ナウシカが牧人から引き出した「真実」は更に残酷でした。浄化完了とともに滅びる腐海の定めは、浄化のために「愚かな」旧人類によって仕組まれた計画だったと。いわば「滅び」すら茶番だったわけです。これは腐海を絶対神聖視し、逆に外界を穢れた場所と見る節のある「森の人」にとり致命的です。
そして恐らくは、彼等自身もまた自らの「腐海依存」に自覚的でした。だからこそ彼等は腐海の存在意義を揺るがすこととなる、浄化の果て・腐海の尽きる地の真実=「そこでは腐海も、人間すらも生きていけないこと」をタブーとしていたのです。それは正に彼等の「世界の終わり」に他ならないから…
「庭園」の牧人は告発します。シュワを目指す途中にここに彷徨いこんだ「森の人」は皆、それまでの生活で得られなかった安らぎを得て、良き園丁となって一生を過ごしたと。それは、この「庭園」の快適さも然りながら、腐海以外を知らないー腐海に依存し過ぎたー故の「脆さ」であったと思われます。
腐海から出ず、外界に依存しない「森の人」にとって、腐海とは正に「世界ノ全テ」であり、自身を含む腐海全体を一個の生命と捉えることで、彼等は深い精神的充足を得ています。この点は賤民としての劣等感が強い「蟲使い」と異なっており、作中の「森の人」を落ち着き洗練された人々としています。