この種の「実際セクハラしている描写はなく」みたいなご意見もたくさんいただいているんですけど、善逸君セクハラしまくってるんだよなあ。 https://t.co/vs4V9KUr49
@suna_kago そのあとの平和シーンとの「落差」でバトルって楽しくなると思うんですよ。温泉のある隠れ里でちょっと骨休めするわけじゃないですか。で、蜜璃さん出てくるわけじゃないですか。で、あのスケベシーンなんですけど、私ここのポイントは、蜜璃さんが微妙に主人公を認めてくれてるところだと思うんです。
「チ。」のこの一節、けっこう現代インターネットにも当てはまるところがあると感じる。文字を読めるということと、書いてあることを理解できるということは実は異なっていて、誰もが文字を読み書きできて、政治的な議論に参与できる民主主義の世の中であることは、実は恐ろしいことなのかもしれない。
それだけあんたらの「エロ」の基準は役に立たんだろって突っ込まれてるわけ。法を作るときは「厳格に運用する!」と言いながら、いざ実際に作られたならば自由を抑圧するために使われた、という事例は歴史上たくさんある。そして、現に今、赤いきつねのCM程度のものをエロだって叩いてるじゃん。
献血のときは、第二弾が出て、「私たちの意見が反映された結果!」って精神勝利キメたのよ。作者の丈先生が否定しても無視。赤十字がテンプレ謝罪したりしたのも良くなかった。要するに、ちょっとでも勝利要素があったらそれ強調して勝利の歴史にしてしまうわけ。
『葬送のフリーレン』と『鬼滅の刃』のいずれも重要な部分は、「死者との対話」が物語の中枢をなしているということだろうと思う。悲惨な戦争の記憶から、戦後の日本人はいつも生の礼賛に必死だったけれど、こうした物語の復権は、死者への敬意が見直されつつあるということだろうと思う。
下位の男性がいることによって、そういう男性と番っていないことへの安心感を得る、みたいなのはあるのかもしれない。鉄骨渡りをしているカイジたちを見て楽しむ金持ちたち、みたいな。
こう、本を片手に持って、ちょっと「困ったもんだ」みたいに眉をひそめながら、口元はにやにやとしながら「ひどいこというよね(笑)」みたいに冷笑するのが左翼の精神的自画像なんだろうな。