「あとから見るとわからない価値」というのがあると思う。園田光慶の「アイアンマッスル」がどれだけ衝撃的だったのか、夏目房之介や秋本治の証言がなければ知ることはできなかったろう。劇画表現全体がコモディティ化された今日では埋もれて見えるからだ。「オホーツク」の音楽もその意味で記したい。
んで思ったんだけど、レトロな技法が再評価されたとき、当時やってた人は大抵もういないのな。全体が若い人によるパロディになってしまい、だからこそ意味が理解されるというのもある。小松崎茂、石原豪人、生頼範義あたりは幸運な例外だと思う。長命で腕が衰えていなかったから可能だったのだ。
一見爽やかなシーンだが、聞こえる動物の声というのが「チュンチュン」とか「ピッピッ」ではなく「ギャーギャー」「グエッグエッ」というあたりが最高。
「劇画」とは要するに筆圧だったのだと思う。それは握力であり腕力であり、なにより筆圧から伝わる情熱を尊ぶ時代の空気だった。もうこのググっと黒い筆圧は今のゴルゴにはない。年齢のせいであり、皆がさんざん「目しか描いてない」とかネタにして、かえって作者を追い詰めてしまったからだ。
小池都知事は「1976年に卒業」 カイロ大学が声明 https://t.co/8LPTlndbq4
(画像はカイロ大学時代の小池都知事の想像図です)