真紅の何がいいって、自分で「誇り高い」と称することに迷いがなく、またそれを生き方で偽っていないところ。私は強い信念のある女性が昔から好きなので。
周囲が不可能と囁く目標をずっと抱き、孤独に成就させようともがく姿が素敵ですね。
「強い女性キャラ」のなかでも特に好きなキャラクターです。
勿論ドアは命令などしてないのだけどア、ホなケビンにかかると「人から指図されてる」と解釈して、真面目につっかかってるところがおかしい。
本人は至って真面目に言ってるが故に無知さが際立って滑稽に見えてしまう。無知の笑いは大友先生がよく使っていた印象。
勘九郎はその後も一度完結した後に再連載として始まったもののすぐに終わった「無敵看板娘N」で、着ぐるみを着た別人キャラというポジションにされたけど、これもやっぱり上手くいっていなかった。
Nは事実上新キャラで仕切り直しというような作品だったけど、どのキャラもぱっとせず残念な結果に。。
あと、チーム系の作品もやっぱりそんなに好きじゃない模様。
「七人のナナ」や「ローゼンメイデン」「武装神姫」等のような「大人数同居もの」ならOK。勿論アクビのような単独居候ものも可。
物事に対するリアクションが平坦で(声優の問題もあるが)、コメット自身に特に目的や能動性がないため話が地味だと本当に地味オブ地味。
もうちょっと物事に対する観念や主義思想がないと見ていて飽きてしまう。何が好きで何が嫌いかとか、そういった性格が未だにあまり見えてこない。
裏で強大な秘密を抱えるエブリデイマジックの主人公として、私は絶対に「微妙に陰キャポジ」であるほうがいいと思っている。
その方が「あいつ目立たねーし普段何やってるのかわかんない」という要素が秘密行動の説得力にも繋がるしギャップにもなる。
この辺りは出来杉は主人公になれない論にも繋がる
このパターンを使うといくらでも話が作れるので、この手の作品の主人公はちょっとにわか気質が性格として付与されることが多い。のび太は特に色んなことに熱しやすく飽きやすい。星のカービィの漫画版「デデデでプププな物語」も、元々ドラえもんパロが多いけど特にこの形式の話が多かった記憶
「不登校」という状況を真面目に掘り下げるなら、本人にとって最も嫌なのは『学校に行こう』と勧めてくる人間達に他ならない。
ローゼンはそこがよくわかっていてジュンよりものりや教師が説得に来る場面で引きこもりの辛さを描いてたのが上手かった。
特に不登校初めの頃は外出自体が心理的に億劫になる。そこから時間が経つとまた心理状態が変化するんだけど。ローゼンのジュンはその辺りの段階的プロセスも上手く描かれていた。
よく知らないけどあれはやっぱり桃種先生自身にひきこもり経験でもあるのかな?
更に、「合わなかった作品」だからといって作品との関係を疎かにするのは私としては愚行。合わなかった作品には無難に面白かった作品以上に熱い感想を誘発させる側面すらある。
合おうが合わなかろうが、その理由を明文化するのが作品・作家に対する敬意であると私は考えている。
「オタクあるある」はやっぱりガチオタにしか描けない。例えば初期の「げんしけん」なんかはこの「オタク度による知識の差」というコミュニケーションの表現が物凄く上手い。
ああいう要素が必要だったと思います。