そしてこの点こそ、ナウシカが「森の人」と完全には一体化できない理由となります。彼女は、腐海の「外」に余りにも多く愛するものがあるのです。その意味でナウシカと「森の人」セリムの関係は、『もののけ姫』におけるアシタカとサンの関係を彷彿とさせます。
一方、ナウシカは腐海「を含む」広く世界を愛し、また様々な試練を経てきたこともあり、たとえ人造由来でもその「偉大さ」を否定しません。彼女の「どんなきっかけで生まれようと生命は同じ。精神の偉大さは苦悩の深さで決まる」という台詞は蓋し至言でしょう。
ナウシカが牧人から引き出した「真実」は更に残酷でした。浄化完了とともに滅びる腐海の定めは、浄化のために「愚かな」旧人類によって仕組まれた計画だったと。いわば「滅び」すら茶番だったわけです。これは腐海を絶対神聖視し、逆に外界を穢れた場所と見る節のある「森の人」にとり致命的です。
そして恐らくは、彼等自身もまた自らの「腐海依存」に自覚的でした。だからこそ彼等は腐海の存在意義を揺るがすこととなる、浄化の果て・腐海の尽きる地の真実=「そこでは腐海も、人間すらも生きていけないこと」をタブーとしていたのです。それは正に彼等の「世界の終わり」に他ならないから…
「庭園」の牧人は告発します。シュワを目指す途中にここに彷徨いこんだ「森の人」は皆、それまでの生活で得られなかった安らぎを得て、良き園丁となって一生を過ごしたと。それは、この「庭園」の快適さも然りながら、腐海以外を知らないー腐海に依存し過ぎたー故の「脆さ」であったと思われます。
腐海から出ず、外界に依存しない「森の人」にとって、腐海とは正に「世界ノ全テ」であり、自身を含む腐海全体を一個の生命と捉えることで、彼等は深い精神的充足を得ています。この点は賤民としての劣等感が強い「蟲使い」と異なっており、作中の「森の人」を落ち着き洗練された人々としています。
まず改めて「森の人」についてまとめると、彼等はほぼ腐海の中で自給自足し、「腐海の一部」と化しています。火すら捨てたその超越的生き方は、外界との交易ー及び交易と不可分化した蔑視ーに依存する蟲使い達からは畏敬の目で見られています。
「判断が遅い」
…というより、流石にここ迄タイミングズレていると、「実行した責任負いたくないから、わざと手遅れのタイミングで「こっちは譲歩してやったのに」というアリバイ作ろうとしている」ようにしか見えませんよ? https://t.co/oFcFhRin24