武田信重は上杉禅秀の乱で没落し幕府の庇護を受けた、いわゆる京都扶持衆のひとり。
父信満の敗死後、修羅の国と化した甲斐に入れず、長年西国に雌伏していたが、永享の乱を機に甲斐守護に返り咲く。
なお戎光祥さんからは信重の弟信長の論集も出ている。こちらも波瀾万丈が過ぎる人。
扇谷上杉方最強の国衆といえる三浦道寸とその子荒次郎義意は、伊勢宗瑞(新九郎)にとってまさにラスボスであり、彼らとの戦争はラストバトル。
三浦父子が『新九郎、奔る!』ではどう描かれるのか楽しみです。
ちなみに参考資料(永井豪『北条早雲』)⤵︎ https://t.co/t2c8v4VgQY
最初に足利持氏と上杉憲実の主従のイメージを刷り込まれたのは、やはり小学館の学習まんが『少年少女日本の歴史』ですね。
きっとモデルは加トちゃんと志村けんにちがいない。
『新編武蔵風土記稿』には稲付村の小字名として「鶴ヶ堀」が見え、「静勝寺の西脇にて昔太田道灌が城廓ありし時の堀跡なりと云」とある。
鶴ヶ堀があったのは西側の外縁部付近だろうか。水堀代わりの亀ヶ池に加え、相当な重防禦化である。鶴ヶ堀の命名は亀ヶ池に対するものか。
#稲付城
マスターキートンで紹介されてた北米イロコイインディアンのナイフ術の奥義を思い出した。
マスターキートンの元ネタって、けっこう海外映画あたりにあったりするんだけど、このテクニックもそうなのかな。 https://t.co/ihtflRbnuh
旧暦の応永30年(1423)8月18日、室町幕府将軍足利義持から常陸佐竹祐義に御内書が発給された。
桃井宣義・「上杉五郎」両人に武家御旗が授けられ、鎌倉公方足利持氏征討の大将として鎌倉府分国へ発向したという内容。
「上杉五郎」とは、上杉禅秀の遺児、犬懸上杉憲顕(憲秋)である。
#犬懸上杉氏
@aotani123 黒田基樹編『関東上杉氏一族』所収山田邦明「上杉房定」を見たところ、かつて井上鋭夫氏が能景が房能から能字を与えられたとされたが、能景の名は房能元服前から使用しているので、それはありえないとの事。
万人恐怖の将軍足利義教は岩松家純の大恩人だった…
普光院殿義教公被召源慶院殿、当家再興之高祖是也、京都之御鴻恩与源慶院殿御遺言也
#松陰私語 https://t.co/YgBdJV1eKk