早雲庵宗瑞こと新九郎盛時は伊勢家一族ではあるけど、伊勢守に任ぜられ伊勢の家名を始めたとされる貞継の系統ではなく、その弟盛経の子孫なんですよね。盛経流も伊勢を名乗っているということは貞継より前の世代ですでに伊勢名字であったのでは🙂 https://t.co/iuQ4o4HvOF
祖先が伊勢守だったので伊勢という名字にしたという説明も意味不明というか、ちょっとよくわかりませんよね…
#新九郎奔る
足利氏の根本被官といえば、のちに将軍家政所頭人を家職とした伊勢氏もそうですよね。鎌倉末期には伊勢宗継なる人が上総守護代をつとめており、すでに有力被官だったようですが、この一族もまた被官化の経緯は不明ですよね。
伊勢平氏季衡流と称しているけど今ひとつ来歴もはっきりしないし…
政所代経験のない蜷川親長は長曾我部元親の下で連歌宗匠をやったり京都方面への取次をやったりしていたのですが、やがて長曾我部に代わり山内が土佐入りした際に起きた浦戸一揆で、なんと文官らしからぬ武辺ぶりを見せたとの事。蜷川家が徳川旗本に取り立てられたのにはこんな一幕があったのですね。
今川了俊といえば普通じゃないほうの『太平記』
九州探題を解任された恨みつらみを自著『難太平記』に書きつらね…でも自分のやらかしについては触れず🙂
#新九郎奔る
埼玉県立嵐山史跡の博物館と埼玉県立文書館共催の講演会「武蔵武士の中世-鎌倉から室町へ-」行ってきました🙂
岡田清一・清水亮・木下竜馬・駒見敬祐各先生の貴重なお話をうかがい、北条氏がなぜ武蔵国を重視しその国務および軍事指揮権を掌握しようとしたのか、少し分かったような気がしました。
柳田快明『中世阿蘇社と阿蘇氏』(戎光祥出版)によると、宛名の「阿蘇大宮司太郎入道」は架空の人物であり、惣領である前大宮司惟時の後継者指名権を否定する意図があったとのこと。
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堀越公方執事上杉治部少輔政憲の登場もうれしい🌲
政憲は父教朝の跡をうけて執事職に就いた人で、上杉禅秀の乱を起こしたかの氏憲の孫です。
実兄の一色政煕が将軍に近侍しており、幕府との確かなツテをもつ人物でもあります。
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