「年代記配合抄」によると山内・扇谷の合戦は永正2年3月まで続いていたようだが、同年4月には上杉顕定が佐竹義舜に「抑旧冬招越越州衆進発、然間、武・相両州敵城、或自落、或攻落候故、速静謐」と書き送っており、すでに和睦が成立している。
ここに長享の乱はようやく終結を見た。 https://t.co/6Axo9G3ErF
長尾景春は将軍足利義政から文明3年5月に足利庄内赤見城攻略の、同年9月に上野立林城合戦の戦功を賞された御内書を与えられており、そこには「長尾四郎右衛門尉」と記されている。
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①木下聡先生の論文は、黒田基樹編著『扇谷上杉氏』(戎光祥出版、2012年)所収
②伊勢貞国肖像(PD)
室町幕府政所頭人伊勢貞国は『新九郎、奔る』にも登場する伊勢貞親の父。
いや、ちょっとちがうか。
長尾景信は上杉龍若を連れてきた人だから…
道灌、景春は良しとして、二人の入道のうちどっちかが道真のはずなのだが…🤔
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顕定背後に「天子御旗」🙄
天子御旗の賜与と天皇による補任により、享徳の乱以降、関東管領職を「天皇の旗本」「関八州の副将軍」とみなす認識が立ち現れてきたのだ!
木下聡先生によると、顕定以降の関東管領が無位無冠の「四郎」「五郎」であったのはこのためなのだ。
#新九郎奔る
摂津氏というと、幕府政所執事じゃなくて、武家の任官に携わっていた官途奉行というイメージです。
#麒麟がくる