白土三平をそういう文脈で語ることは許されなかったのだけど、この人は要するに忍者アクションが素晴らしかったのだ。本当に唯一無二のスピード感とテンポがあって、誰も継承できていない。階級闘争とかそういうのは、主題のようで所詮薬味に過ぎないと思っている。宮崎駿のエコロジーとかと同様。
これさあ、この時代のグラデのトーンって高かったんだ。「さあ、この高級品をここに貼ってやるぜ!」みたいな筆者の高揚を感じる。さながらフェルメールの青のように。
寺沢武一のアシスタントとかになると、この流麗な絵の中に、パースのかかった地面の線をさらさらっと描かなきゃいけないんだろうな…これ込み入った背景よりよっぽどイヤだな…緊張で手が震えそう。
これは同感する。要するにフォン・デニケンの流れを汲むのだと思うけど、ナスカの地上絵に率先してSF的なロマンを求め、その意匠を洗練されたものとしたことにおいてゼビウスの影響、功績はかなり大きかったと思う。
「神は細部に宿る」から、んでコンピューターは細部の扱いが得意だから、今はとりあえず細部を増やすのな。だけど「省く方向の細部」というのもあって。一本一本を必要に迫られる形で丁寧に吟味し、省略していった線には茶道にも似た緊張や美しさが宿り、それは今や失われつつあるものだ。
長谷邦夫を一通り読んでみると、赤塚不二夫との決別の理由に、赤塚の酒で荒れた生活への嫌気の他に、赤塚が後年一時目指そうとしたというペーソス路線への転換に乗れなかったのではないかという気もする。彼が優れたブレーンであったことには違いないが、嗜好の違いというのはいかんともしがたい。
よく見るとトレスでなく模写であることに気づく。きっと中沢啓治なりの矜持のようなものがそこにあるのだ。そして意外とこれが「はだしのゲン」の根底にある矜持と思う。この信仰にも似たリスペクトが彼を表現へと駆り立てたのではないか。