ビデオゲーム以前の「ゲーム」のニュアンスについては「ドラえもん」のこれが参考になるのではないかと思う。当時読んで脳裏に浮かぶのはこの類。これがビデオゲームの登場によって一気に一般名詞としてのお株を奪われ「人生ゲーム」などの固有名詞しか残らなくなったというのが個人的印象である。
篠原とおるとか永松健夫のペンの巧みさって顧みられないのよな。かたや劇画技法の中に、かたや黄金バットのインパクトの中にそれぞれ埋もれている。
今週のモーニングで、島耕作の亀淵が死んでいて慄然とする。一部で有名なこの男である。この漫画においては「島耕作を妨げるもの、死の翼に触れるべし」であり、誰もがすっかり忘れたと思っていたが、島耕作世界の神は執念深く覚えていたのだ。もちろん島耕作は彼の死に麗しく涙を流す。
「安保の時代を生き抜いたメンタル」というのを決して侮ってはいけないと思った。それは「文化大革命の時代を生き抜いたメンタル」と同様に、状況に応じた都合の良い変節を正当化し、それ自体を信義のようにして恥じない。きわめて現実的な処世の術なのだ。
これらから藤子Fの内面を読み取ってみるのである。①や②の情緒は描ける者が他にもいるとして③がなかなか描けないと思うのだ。パパをロングで、情景の一部として描いている。ある意味彼を現実に突き放しているのだ。それが描ける峻厳さ、バランス感覚というのは稀有だったと思う。