マンガ絵で「頬を赤らめる」表現でタッチを入れるのである。モノクロ原稿で赤らみを表現するためと思っていたが、カラーだろうがアニメだろうが、やっぱタッチが入る。自分でも入れたくなる。今気づいたがこれは、顔面を意識する描き手の内面に生じている線なのではないか。本宮ひろ志の口のように。
こういうのも、記号的表現であるのはもちろんだけど、描き手の内面の発露なんだよな。 この髪の毛の汗はもちろん目には見えないが、描き手の「頭皮が発汗する思い」「汗が体表を流れる、滴る思い」の再現であり、それを共有しているのだろう。
今気づいたのだが、これはもはや金額の話ではなくて健康の話ではなかろうか。松のやに朝行けばトンカツなんて400円で食えるが、じゃあいつでも食えるかと言えば食えない。ビビる自分がいる。絶対腹の脂肪になる。ああ、いつでも食えるくらいに節制した自分でありたい。いや一昨日食ったけど。
マンガの人気はアイディアやキャラクターだと言われるのである。でもそれだと説明できない差異があって、「流行」で括ると一般化ができない。ふと「態度」ではないかと思った。キャラクターの示す、大筋は常に変わらずとも時代によって微妙に変化する物事への「態度」が人気に繋がるのではないか。
怒る、泣く。しかしこんな時、こんな風に怒る、泣くという「態度」は時代によって微妙に変化し、それが逆にキャラクターの造形にも作用する。炭治郎の健気さ(よく知らんけど)を見るたび、兜甲児の破天荒を思い出すのである。もちろんどちらがいい悪いというのではない。時代による態度の変化である。
「根性」も「絆」も自己犠牲を強いるのである。それが空想的な「勝利」に向くか、あるいは同じくらい空想的な「連帯感」に向くかの違いでしかないと思っている。根性を徹底的に葬り去った我々が、いつか絆を血祭りに上げないわけはなく、その結末と、その次さらに何が持ち出されるかが恐ろしい。