ちなみにこの図をはじめて知ったのは寺島令子さんのマンガである。「微妙な絵だなあ」と思って本物を見たらさらにビミョーな絵で納得した。「宇宙人標識」にも似た、繰り返された複製によるゲシュタルト崩壊の趣きがあるよな。
「しょうちゅうをかってこいっ!」
梶原一騎らしいいいセリフである。いつかこういうセリフを使ってみたいが、オレ家に酒が切れるのイヤなので、キンミヤの1800mlパックを常に6本ほど常備してる。大地震が起こってもまあ酒だけは困らんように。シャリキンに凍らせるとうまいよ。
一峰大二の、まぶたのベタカゲに黒目が優先するという描写はどこから来たのか気になっている。アニメの処理では珍しくないのだが、白目に落とすカゲを色トレス…というのが普通だ。(じゃないと黒目の明度が負けるから)エアブラシといい、実は一峰大二は独自テクの宝庫である。
バナナ型神話の本当の恐ろしさは、死の起源やその不思議ではない。生や死に、バナナや岩に、価値を見出すその認識の危うさなのだと思う。これについては諸星大二郎が極めて巧みに描いている。どっちを選んでも幸せにはなれない。岩を選んでこうなりたいかね。そもそも本当にバナナを選んでいたのかね。
今この絵を描いたらこんなもんじゃ済まない。物凄いレベルのマリー・アントワネットやパリを要求されるし、有能なアシスタントが全力で描いちゃうはずだ。んで想像できるのだけど、マンガとしてこれほど面白くはならない。だって作者の集中力は有限だから。お話で頑張るしかないから面白いのである。
中世の作品の抹香臭さが嫌になるのと同じように、我ら同時代の作品における「SF臭さ」「アカ臭さ」「根性臭さ」「絆臭さ」「ゲーム臭さ」みたいなものを覚悟しておくべきであろう。どんな揺るぎない真理に見えるものも、全て移ろいゆく流行でしかなく、何一つ人の心には残らないのである。