バタークリームで薔薇を作ってくれたのである。見本写真でこれだから、実物はもっと適当である。だが忘れられない。こんな細工が非日常的な祝祭感を醸し出し、憧れて、そしてちっとも美味しゅうない。ああ美味しゅうなかった。
この話題でもう一つ指摘しておきたいのは、連載当時梶原一騎&読者の間で既にソースライスが「貧乏飯」のイメージであり、それ自体は間違いではないのだが、昭和初期においておそらく各家庭にまだウスターソースが常備されていない状況で、一応の「それなりメニュー」であった可能性の忘却である。
「ど根性ガエル」の文化史的な意味は侮れない。意外とこれが当時の子供の風俗を最も活き活きと記録しているのではないか。「屋台のおでんが子供にとって小躍りするほどのご馳走で鍋持って買いに行く」なんて他で見たことない。おっさんが酒飲んでる映画は山程見るのに。しかしなんたるバイタリティ。
ここでバカ中学生のひろしが「翼よ! あれが巴里の灯だ!」を引用することに反応が多くビックリしている。つまりスルーするオレの人間が古いのだ。当時の読者にとって57年の映画ネタとして、見たことがなくとも普通に語り継がれ、今で言う「我が生涯に一片の悔い無し」とかに近いのではないか。
漫画家ってすごいよね。普通まったく描かれない水木しげるを像を的確に捉えてさらっと描いている。要素抽出と魅力的な再構成。この能力が一番すごいんだよね。
予の辞書に不可能はない(Impossible n'est pas français)とはナポレオンの言葉だが、これはつまりナポレオンが普段から辞書を持ち歩いていたことを意味するのである。インベーダーキャップも被っていた。
皿洗いは大好きである。そうなるように自分を躾けた。そうでないとやがて悲惨なことになるからである。しかしこの「クリエイティブでじゃないことは嫌」という気分は物凄くわかる。やる気は有限であり、余計な作業で消耗するわけにはいかない。なのでクリエイティブという言葉で自己欺瞞するのだ。
「クリエイティブ」に実体はないのである。凡夫の為すこと全体に、大した意味があるはずもない。しかしなぜギャンブルにハマる者が多いかと言えばおそらくそれが「クリエイティブに見える」からではないか。ならばクリエイティブであることは非常に重要であろう。それが創作であった方がなおマシだ。