手塚治虫はあれだけの天才なのだけど、手より頭がさらに天才だったのだと思う。対水木しげる作品としての「どろろ」対吾妻ひでお(ロリコン)作品として「プライム・ローズ」。相手の本質を見抜き、その弱点を補うワンアイディアすら加える。だが超人的作画力を持つにせよ、右手は一本しかなかった。
ここでバカ中学生のひろしが「翼よ! あれが巴里の灯だ!」を引用することに反応が多くビックリしている。つまりスルーするオレの人間が古いのだ。当時の読者にとって57年の映画ネタとして、見たことがなくとも普通に語り継がれ、今で言う「我が生涯に一片の悔い無し」とかに近いのではないか。
今気づいたのだが、これはもはや金額の話ではなくて健康の話ではなかろうか。松のやに朝行けばトンカツなんて400円で食えるが、じゃあいつでも食えるかと言えば食えない。ビビる自分がいる。絶対腹の脂肪になる。ああ、いつでも食えるくらいに節制した自分でありたい。いや一昨日食ったけど。
つまり「日本人らしく見えない」という時点で、無自覚で強烈な、ある種の意識が混入しやすいと思っていい。もちろん返す刀で明治から100年ほど自分の容姿に強いコンプレックスを持った日本人が、せめてマンガ絵で必死でそこから抜け出そうとした経緯ももちろんある。要するに二重に難儀な話題である。
よく考えたらヌンチャクはこんな風に動かないのである。だが一度これを見てしまうと、ヌンチャクの表現はもうこれでいいような、逆にこれしかないような気がしてくる。絶対打ちにくいと思うけどそれすらもうどうでもいい。
kindle無料で、中島徳博のアストロ球団以外のマンガがまとめて読めるのである。ぜひ読め。読めばわかる。中島徳博にとっての「野球モノ」が、よくある作家の力不足を補うための枠などではなく、あまりに破天荒な作家性をギリギリ制御するための箍、孫悟空の輪っかみたいな存在であったことが。
今も皆「ロボット描いてくれ」と言われたらついどこかにガンダム風味入れとくだろう。言い訳や魔除けのようにして。だってわからん奴って本当にわからんからな。手塚治虫の宿痾のように言われるオチャラケも、戦後漫画界を生き抜いた彼の生存戦略、痕跡器官と考えるべきと思うのだ。