昭和31年8月、私は生まれ育った神戸を離れていく汽車の中で、知らない世界へと飛び込んでいく時の冒険心と希望とで胸がいっぱいになるのを感じていた。(了)
#横山光輝の青春
長い間にわたって横山の手伝いをしてきた嶋田が、「世話になった礼に」と横山の未発表作品の原稿「三つ子の鉱夫(116ページ)」と「みどりさん(7ページ)」をもらったのはこの時だった。
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【昭和31年8月】
2本の連載漫画を抱える売れっ子作家となった横山は、ここに至りついに上京する決心を固める。
友人の煎塚はこの時も横山の母親から「神戸に残るよう説得して欲しい」と頼まれたが、さすがにそれは無理な相談だと分かっていた。
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幅広いジャンルの作品をコンスタントに発表し続けた横山の元に、雑誌「少年」の編集部から、「少年」でも何か長編作品を描いてみないかという声がかかる。
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【昭和29年8月】
この堺での住み込み工員生活は1年で終わる。この年に大きな台風が近畿地方を直撃し、工場の屋根が吹き飛ばされ、横山と嶋田の生活小屋も壊れ、横山が持ち込んだ用紙や執筆道具も滅茶苦茶になってしまったからだった。
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【昭和28年9月】
横山の友人・嶋田は高校を卒業後、彼の母方の叔父が経営する堺市の出来鉄工所に勤めていたが、横山が銀行を辞め仕事を探していると聞いて、同じ工場で働かないかと誘った。
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