横山にまず課せられた仕事は、会社や商店等への集金業務だった。そして集金したお金を支店に持ち帰った後は集計もしなければならず、残業の日々が続いた。
#横山光輝の青春
【昭和31年8月】
2本の連載漫画を抱える売れっ子作家となった横山は、ここに至りついに上京する決心を固める。
友人の煎塚はこの時も横山の母親から「神戸に残るよう説得して欲しい」と頼まれたが、さすがにそれは無理な相談だと分かっていた。
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長い間にわたって横山の手伝いをしてきた嶋田が、「世話になった礼に」と横山の未発表作品の原稿「三つ子の鉱夫(116ページ)」と「みどりさん(7ページ)」をもらったのはこの時だった。
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嶋田や煎塚と一緒に須磨海岸へ遊びに行った時に、「銀行でも受けてみるわ」と胸の内を明かし、友人たちの「漫画はどうする?」という問いかけに「あれは趣味や」と答えていた。
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ちなみに、この高校時代に描いて雑誌に掲載された「すすめジョン君」や「頭のジョン君」の「ジョン」というのは、嶋田のニックネーム「おジョン」から来ている。
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【昭和28年9月】
横山の友人・嶋田は高校を卒業後、彼の母方の叔父が経営する堺市の出来鉄工所に勤めていたが、横山が銀行を辞め仕事を探していると聞いて、同じ工場で働かないかと誘った。
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