白土三平「殺生小屋」(1961年頃)、殺伐ホラーと思わせてうっかりオチかと思いきや、ゆるい社会批判で終わるところが良いです。
双葉社オール娯楽昭和40年4月~連載 石森章太郎「超特急記者ハト子ちゃん」。読物誌だが漫画部分は清水文人が関わっていたと推測。清水文人はモンキー・パンチのプレイボーイ入門を見て「女がまるきり描けていない」と言ったらしいがこの作品を念頭においていたのではないかと思う。
昭和22年の赤本漫画ですが唐沢なをき先生の漫画みたいな内容。アヲキスエヲ「忍術太郎漫遊記」(昭和22年7月)。曙出版の最初期の漫画単行本で土屋弘社長の好みの作風かもしれません。絵を見るとかたびらすすむにしか見えないのですが青木末雄という作家は別におり、真似にしてはうますぎるので謎です。
届いたばかりの、さいとう・たかを先生の初期作品を読んだところで訃報。1956年7月頃に描かれた「目撃者」という作品で漫画家を主人公にしている。家業の理髪店を辞めた頃でしょうか?ここから65年で成し遂げたことが多すぎて全貌を把握するのが難しいけどできるだけ追っていきたい。
石井いさみ先生の貸本誌『街』投稿作(1958年末)では評者の辰巳ヨシヒロから「夢がない」と評されていますが、「のら犬の丘」等の真樹日佐夫原作作品ではこの退廃的な持ち味が発揮されて見ごたえのある作品となっていました。同じ投稿者の荒木伸吾は同様の話を描いても「夢がある」と評されています。
白土三平先生も亡くなられたか。『灰色熊の伝記』でワーブが死の谷で一瞬立ち止まった後に踏み出す場面が良くて自分が死ぬ時もこれを思い出すかもしれない。
平田弘史メジャー誌デビューの「孤独な剣客」(コミックmagazine1966年8月号)は大人向けストーリー漫画の作風になっていますが、その2号後の10月号「蝦蟇剣法」では完全に劇画に変わっています。真崎守が編集に加わった影響だと思いますが、この1966年10月号が実質的な青年劇画誌第1号だと思います。