白土三平「殺生小屋」(1961年頃)、殺伐ホラーと思わせてうっかりオチかと思いきや、ゆるい社会批判で終わるところが良いです。
狭山市立博物館の金山明博 遊画展に行ってきました(2回目)。面識はなかったのですが過去の貸本作品集を自作したものと金山さんの貸本単行本を差し上げたら喜ばれてお酒と食事をご馳走になりました。金山さんも出崎統さんと杉野昭夫さんの漫画作品は読んだことがなかったそうです。
平田弘史メジャー誌デビューの「孤独な剣客」(コミックmagazine1966年8月号)は大人向けストーリー漫画の作風になっていますが、その2号後の10月号「蝦蟇剣法」では完全に劇画に変わっています。真崎守が編集に加わった影響だと思いますが、この1966年10月号が実質的な青年劇画誌第1号だと思います。
モンキー・パンチ先生追悼で初期作品紹介しておきます。1959年12月加東一彦名義「24日(クリスマス)に降る霙(みぞれ)」。デビュー後1年程の作品で、加西という貧しい漫画家を主人公にした珍しく自己投影的で感傷的な作品になっています。「世界の名作物を漫画に脚色」というアイデアが書かれています。
白土三平先生も亡くなられたか。『灰色熊の伝記』でワーブが死の谷で一瞬立ち止まった後に踏み出す場面が良くて自分が死ぬ時もこれを思い出すかもしれない。
昭和34年貸本誌投稿からデビューした吉元正(バロン吉元)は昭和37年横山まさみちに弟子入り。無名の新人が昭和38年からの貸本崩壊期に30冊以上単行本を出せたのだからこの判断は正しかったのだろう。バビル二世の浩一顔の絵を描く荒木伸吾。
漫画パック昭和43年5月12日号小日向一夢(木俣清史)「まぼろしの美女」。蔦屋に美人画の行き詰りを懸念された歌麿が「歌満くら」の毛深いむくつけ男の手籠め図を描きあげるまでの過程を想像した内容が面白い。漫画OKの菊川英昌も恐らく変名。