少年漫画で男が空を飛ぶとこうなる。こういう品のない飛び方は「違う」のだ。
空を飛ぶならふわっ飛んで「わぁ…」と目を輝かせて飛んでほしい。
ド カ ン と飛んで「なめやがって!!!!ゆるさんぞおーーーーーーーっ!!!!」では断じて、ない。
※ドラゴンボールも好きです
のび太の視点から始まり、退室するのび太にカメラが着いて行かず、ドラえもんの側に残ることで、のび太を滑稽に見せている視点の移行。
ミックのアクションシーン②
緩急の付け方がうまい。数コマ跨いだ敵の襲撃を一コマで制してしまうのがカッコいい。
現在はなるべく殺生しないように心がけてるミックに賞金首としての暗い過去があるのもカッコよかった。
ではしずかがのび太の元に向かうシーンにはどういう音楽が必要なのか?
動いてるのはしずかだけ、のび太は危機にある。しずかは他のことを考える余裕はなく「のび太を助けなくては」という思いだけで、ただひたすら前進する。
シーンの主眼たるしずかにとっては「切迫した場面」以外の何物でもない。
基本、ちゃんと物語として説得力のある動機を拡張してドラマにしてる。
オチになってる突拍子もないことを拡張するってのはどうなのかなぁ。
無理やりこじつけするなら、女性神話には「冥界下り」という主人公がどん底に陥るパートがあって、この二作品の主人公は片思い系キャラなので、アーク的には似たようなものをなぞるのはなぞるだろうと思う。
でもシチュエーションから演出までソックリなのは説明不可能。
裏で強大な秘密を抱えるエブリデイマジックの主人公として、私は絶対に「微妙に陰キャポジ」であるほうがいいと思っている。
その方が「あいつ目立たねーし普段何やってるのかわかんない」という要素が秘密行動の説得力にも繋がるしギャップにもなる。
この辺りは出来杉は主人公になれない論にも繋がる
勿論ドアは命令などしてないのだけどア、ホなケビンにかかると「人から指図されてる」と解釈して、真面目につっかかってるところがおかしい。
本人は至って真面目に言ってるが故に無知さが際立って滑稽に見えてしまう。無知の笑いは大友先生がよく使っていた印象。
マティはルースターの仕打ちにショックを受けて「触らないで」と拒むが、それでもルースターはマティを抱えて荒野を走る。
自らの未熟さ故の利己的で無鉄砲な行動で他者が傷つき、それを乗り越えて少女が大人になる。雪の女王やナウシカに通ずるビートがある。
自らの目的のために他者の命を犠牲にする、そうまでする意志の強さに感動すると宮崎監督は仰っていて、それは漫画版ナウシカに反映されたわけだけどトゥルー・グリッドでは主人公マティの愛馬が最後に死ぬ。毒蛇に噛まれたマティを助けるためにルースターが休ませず、ナイフを突き刺してでも走らせる
「ドラゴンボール」のナメック星編はボール争奪戦のサスペンス。あれも勢力的には全く拮抗していない複数の対立者が生存を賭けた知能戦を繰り広げる。ドラゴンボールはストーリーが単純と言われがちだけど、サイヤ人編からセル編までは映画的なストーリーテリングがよく研究・流用されていると感じる。