ちなみに該当場面は原作ではこの4コマだけでアニメの翻案としてこれだけ膨らませていて。一方で冗談でもあまり筋がよくない年齢いじりはけずられていたりする。
#ぼっち・ざ・ろっく
「邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん」Season9/7本目 さかなのこ(後編)。
添付の沖田修一監督作品の紹介順、良いな、って思った。いやだって、自分でも(巧い作品、好きな作品というどちらの軸でも)正にその順にその4作品挙げるなあ、
https://t.co/HjofYV00al
って思ったから。
山田リョウ、アニメ4話で語られた前のバンド抜けた時の凹みっぷりもそうだし、後に語られる(添付。原作2巻p22,23,45)過去に文化祭で滑ったことをトラウマにしている話かも分かるように超然としている訳でもないし、打たれ強くもないから……。
#ぼっち・ざ・ろっく
チェンソーマンアニメ版4話と原作該当部分。
https://t.co/hVJlekflgS
アニメ版は二人の目つきの描き方を(原作と比較すればわかりやすいように)だいぶ近づけて、対にして描いてるよ、って表現しているように見える。
アニメ版チェンソーマン4話、「コン」の演出こんな感じかー。
なんというか原作の"世界の理を超えて(なんならいわゆる「第四の壁」も超えて)"の一撃という風情までは出てないような。これだと地獄の例の場面の方も……。
まあ「じゃあどうすればよかったんだ」と聞かれても困るけど。
漫画チェンソーマン109話「簡単なイジメのなくしかた」。正義の悪魔の前にヒーロー然として現れ戦い始めつつ、まったく相手は眼中にないチェンソーマン……という話の冒頭にこう鳥が飛んでると、鳥を通じナユタの眼が見据えている、その視界の中に収められてる出来事なんだろうなあ、ってなる。
ところで「カラカラ」がまず山田リョウの曲であるとして、そう、「カラカラ」だよね「カラコロコロカラ」じゃないよね、うん、良かったね……
※添付画像は原作漫画『ぼっち・ざ・ろっく!』2巻p27より。
アリスと蔵六、連載最新話(43話)。
添付1枚目の二人の眼の描き方、少し異例というか、そうあるべくして描き込んでる場面だなと思った。
2枚目。思い切りのよい設定入れてきて、好き。
3枚目。「みんなが今日の立役者だね」いい台詞。
4枚目。今井哲也作品の描く"ちゃんとした大人"だなあ、と。
ちなみに原作では個性を捨てたら死んだのと一緒なのはバンド、それがアニメ版では「個性捨てたら死んでるのと一緒だよ」バンドどころでなく、自分自身が死んでしまう、そういうものなんだと言っていたりする。
そうして出来上がった作詞にリョウだけでなく、アニメでは虹夏「でもさ、この歌詞本当にいいよぼっちちゃん」喜多ちゃん「あ、私ここのフレーズ、好きです!」(リョウ「私も」)と加えてる。
とりあえず、主にわかりゃすい台詞の翻案見ていくだけでも丁寧な作りしてるなーと思わされる。
原作の「暇ならベースやって!」にアニメは「なんで」「だって私、リョウのベース好きだし!」と加えて。虹夏さんの相手をしっかり見据えて食い込む翻案は1話からずっとだなー。
原作「音楽になるんだよ」はアニメで「音楽になって、それが結束バンドの色になるんだから」とされる。
『ぼくらのよあけ』のナナコはどうやって飛ぶのか?。たぶん、その問いに対してはこれ(添付)とだいたい同じ対応でいいのでは?と個人的には思ってた。