勿論、羽蟲達は「(愛情から)粘菌を食べようとして失敗した」、王蟲は「最初から食べられるために集まった」という違いはありますが、最終的にはどちらも粘菌に喰われたにも関わらず、その結果は全く異なります。これは何故でしょうか?
ただ、これら「外部」との接点はかなり乏しいようで、土鬼大海嘯を土鬼・トルメキアとも「世界の半分が失われた」と言い表すため、交流可能な「世界」とは地図上の土鬼・トルメキア・エフタル辺境に事実上限られていたと言えそうです。
と、ここで疑問になるのはそんな長距離を「森の人」は横断できたのか?という疑問です。腐海内はかなり植物が密集し、もちろん道などもなく、そこを火すら捨てた丸腰で行くとなればかなり困難ではないでしょうか?
そうした意味で「ナウシカ」において家族の影が薄いのは、ナウシカを含む皆が家族・故郷から「一歩踏み出したさきの」新たな出会い・別れ・成長を描く、登場人物一人一人にとっての冒険譚だからと言えるのではないでしょうか。
ナウシカ世界の非差別民たる蟲遣い達もまたナウシカとの出逢いを機に変わっていきます。ナウシカを遂に与えられた神=嘗ての日々との決別の証と崇めた蟲遣い達は、彼女から「同じ友になる」ことを求められ、そうして掛替えの無い仲間となることを誓います。
こうした、「墓所の知が齎す絶望」と言う名の「服従への道」は、実は「庭園」において牧人がナウシカに投げかけたものと重なります。いわく、「世界の浄化≒人間の滅亡は不可避だ。なのに人間は飽きずに同じ愚行を繰返す」と。
お早うございます。最近、仕事場でのお偉方からの無茶振りが増える一方ですが、タイユラン先生的強かさでするりと躱していきたいと思いまする。
割と微細な変化に見えますが、道化の台詞が、ヴ王の「(神官の詩が陳腐過ぎて)耳が腐る」から続いているため、道化のからかい対象が神官→王に変わっているわけですね。