無論、王蟲も怒りに我を忘れて暴走することはありますが、酸の湖の例にみるように、目的を果たせば怒りから醒めるのも割と早いことが伺われます。即ち、仮にエフタル大海嘯が怒りゆえとして、なにゆえ或いは何を求めて2000リーグも突進したのかが問題になるわけです。
最終的にクシャナはユパの身を挺した「復讐連鎖の打ち止め」「新たな指針たる王道の提示」でこの迷走≒虚無から抜け出しますが、遂に虚無に呑まれたのが土鬼皇帝ミラルパでした。彼は息も絶え絶えに側近チヤルカに吐露します。愚民達は自分が放つ恐怖で縛り付けねばバラバラになり崩壊すると。
これはナウシカの囚われた虚無ですが、この世界には他にも虚無に囚われた者が溢れています。例えば4巻ではクシャナが、眼の前で仇の一人ーソレを殺す為に生涯を傾けた存在ーがあっけなく死ぬことで、自身の生きる意味を失い、今度は死に魅入られたような「迷走」を始めます。
寧ろ実際の上人は「神に仕えるため」自ら盲になる苦行を受け、また土鬼皇帝からの弾圧を受けても決して折れず耐え続け、加えて人生の最期に自分に反駁を加えた少女を「優しく猛々しい風が来た、永く待った甲斐があった」と歓迎までしており、死を救済とみる姿勢とは対極的ですらあります。
そしてナウシカとの共闘を続ける内にチヤルカは確信します。ナウシカは土鬼の敵ではない、「青い衣の者」=邪教徒の首魁と見るのは誤りであると。これを、「でも皇弟はとても理解しないだろう」という思いと、同時にそれでも揺るがぬ忠誠心とともに抱えるのが彼の複雑矛盾かつ魅力的なところです。
一方、「神人の地」は、その維持に明らかに外部リソース=人間の生贄を必要とします。というのも、先程見た「緑の巨人」は、農作業を終えると森の生き物達の餌として、「骨も残さず」食べ尽くされているからです。
そして「有翼の少女」は地上に暮らせるだけの強力な汚染耐性を身に着けた新人類=ナウシカ達の直接の先祖になるかもしれません。
また、ナウシカ(やヴ王)のように「遠い過去に決められた計画で未来を決められたり、まして現在の生を潰されてたまるか!それがどれだけ愚かで悲惨でも」という、清濁併せ呑んだ考えとも墓所の相性は悪くなる。最も、この思想に至るには常人には乗り越えがたい試練を積み重ねる必要があり、(続く)