ここで再度、ナウシカ世界での「超常の力」の発現状況を見てみましょう。最も発現が多く、また使用者も多い力は何かと言えば、実は「念話」「念視(?)」による、言語を越えたコミュニケーションになります。
この「超常の力」ですが、念動、念話、幽体離脱と様々な種類があり、また歴代土鬼皇族など、ある程度血統による発現差があることが見てとれます。
実はらナウシカが墓所でこの信念を以て墓所と対決する下記の場面も単行本書き下ろしなのですが、こうしてみると墓所編についてはかなり丹念に伏線部分から書き直してテーマを深掘りしているのですね。
もう一つ。蟲使いの棲みかは、腐海の拡大とともに「人界に近い方へ」移動していると思われます。恰も後退する海/湖を追う漁民のように。というのも、あまり人界から遠いと、交易も交易原資の確保(=墓荒し)も難しくなるからです。その最も大規模なものが、大海嘯に伴う「民族大移動」でしょう。
それは「腐海側のキャパシティ」の問題です。蟲の卵を「分けて貰い」、況んやその体を棲みかや衣服に利用する「森の人」は蟲から見れば一種の寄生者ですが、そうした者を腐海はどれ程養えるのでしょうか?もしもっと沢山の人が彼等のように「腐海と共に」生活するようになればどうなるのでしょうか?
てかあそこまで憎悪(本人的には「反論」のつもりかもですが)を所構わず撒き散らす様子は、ブラクラの双子編でのレヴィの指摘が近いように思えますね。もう自分でも何を憎んでるか判らなくなって、挙げ句「色々」巻き込んで吹っ飛ばすと。 https://t.co/q3CNuxWfvN
ここで考えられるのは、浄化が進んで「住めなくなった」腐海深部から、蟲や木々が外縁部に向かい引っ越しを始めることです。蟲たちとて生存本能はあり、大海嘯前には大量の卵を遺す位ですから、浄化で滅び行く森で座して死を俟つことはないでしょう。
これは「地球全体の浄化」を考えればかなり中途半端なものになります。そしてこれは技術的限界というよりは腐海という「植物生態系」に浄化を担わせた結果の必然であり、さらに踏み込めば元々の浄化計画自体が限定的なものであったと考えられます。
このことから、体液ごと王蟲を喰らい尽くした粘菌達もまた、落ち着きを取り戻し、「仕組まれた身体ゆえ命が短いことへの不安」に由来する暴走も鎮まったのではないかと考えられます。
対象的に、庭園は自らを「全てを断ち切る場所」と呼びます。そこに未来・変化はなく、千年前から変わらぬ穏やかな箱庭世界が続いていく。訪れた「森の人」はじめ客人は初めての安らぎを覚え、そのまま庭園に囚われ「よき園丁」として朽ちていく…それは「安らかな死」の世界によく似ています。
そんな中に、トルメキアの王族からも一目置かれる、武勇と博識の壮年男性がいるとなれば、ナウシカへの中継ぎなり摂政(?)なりにユパを推す声が上がってもおかしくないかもしれません。映画版など、ジル自身がそれを促していましたが…
このことに関連して気になるのは、僧会における「序列」です。実は作中では、チヤルカがサパタ包囲軍司令官に任命されている以外、僧会各員の序列・位階は明らかにされておらず、僅かに「長老院」なる幹部会らしきものの存在が伺われるだけです。