ただ、これらの名称はようは分かりやすい「ラベル付け」であって、彼らは彼ら自身にすら、自分が「誰」であるかを惑う。苦悩する。
であればこそ、セクシャルな問題に好奇を向ける世間にあって、平静でいられるはずかない
一方で、そういった「名前」が無ければ、彼らは本当に、この世に存在しない空気になってしまう。
そうしないためには、どうすれば良いか。たすくが出した一つの答えが、物語のクライマックスである、レズビアンカップルの結婚式だろうか
ただ、談話室のメンバーは「一定の」理解を得て、美しい結婚式を迎えるのだが、本編中では何度も「わかりあえないこと」も描いている。「わかりあえないままでも良い世界」こそ「良い世界」なのではと繰り返す。
「同じ船に乗れば、当然同じ属性であるべき」という息苦しさを、考えなければ
【呪術廻戦】と【しまなみ誰そ彼】を読んで。
「心の中の椅子」に「誰かを座らせる余裕がある」のって、それはそれで良いことなんだろうけど、「そうでなくともいい」「気を張らなくても良い」ってのも忘れないようにしたい
【しまな誰そ彼】一番心に響いた話。
トランスジェンダーである内海は、同級生である小山と再会。旧友の性転換も知らなかった小山は、内海への惜しみない支援を「心から」申し出る。
…しかし、それらは果たして「当人を想って」のものだろうか。「善意」の向こうに、「優越感」が隠れてはいないか
旧Secret Invasionで一番手痛くやられたトニーとヒルが、今ではスクラルをどう思っているか?世界をどう見ているか?
先の作品ほどの派手さはないが、この辺りを描くだけでも、続編の価値を感じた
「いやあ、もうさすがにクロスボーンはいいっすよ…腹一杯っすよ…」
↓
「うおおおおお!!!!パクパクモグモグ」
むしろ、見所は最終盤だ。
「本来一つであるものが、二つになっていた。」クラコアとアラッコの未来はどうなるかを、アポカリプス夫妻やサマーズ夫妻、その子である四騎士やケーブルたちの奮闘を通じて描く。
様々な「分断」に、「ミュータント」は立ち向かっていく