今思うと「セカンドマン」の実にビシっとした完成度の高さって学年誌連載だったのが大きいのかな。描き飛ばすマンガの対極にあって「うかつなもの見せられん」みたいな緊張がある。藤子不二雄はその権化みたいなところがあるけど。
たとえばこのような視点で「戦争に突入した日本人」というのを見る。しかしおそらく、このどこにも当時の我々の大多数はいないのだ。コロナ渦中のオリンピックがそうであるように。状況の中にあって思うことはあれど、自ずから口をつぐまざるを得ない。これを我が身に思い知らされるのが地味に沁みる。
言われて初めてちゃんと見たんだけど、何をどうしたらこんなヘンな話を思いつくんだ! 「首吊り気球」自体はまだいいとして、「気球をうっかり割るとその顔をした人がしぼむ」というのが出色で、理屈にもなってないのに大変納得できるという。というか笑える。 https://t.co/djLRzKRJZK
ガイアーのニッカボッカ風な足はおそらく地球ナンバーV7あたりから引きずっており、鳥山明の多用するエイリアン風意匠と同じく「これ入れとくとウケるんちゃうか」という無意識の方向性なのだと思う。なぜそう思うに至ったのかはナゾだ。どこかに「カッコいいニッカボッカ」の源流があったのか。
「動かない動き」というとあとこれ! 藤子A! 肉体は絶対にこんな風には動かず、アニメーターならこうは描かない。しかし動くはずのないこの絵は紛れもなく動いており、その「だまし絵」のようなインパクトは一度見たら忘れられない。すげえ! いったい何やってるんだ兄ちゃん!
むちゃくちゃ上手い。本編の轟天にここまでのまとまりはない。ないんだけど、みんなそのまとまりのなさが好きなのだ。ヘンなデザインだったなあ。けどあれ以外に考えられない。
今も皆「ロボット描いてくれ」と言われたらついどこかにガンダム風味入れとくだろう。言い訳や魔除けのようにして。だってわからん奴って本当にわからんからな。手塚治虫の宿痾のように言われるオチャラケも、戦後漫画界を生き抜いた彼の生存戦略、痕跡器官と考えるべきと思うのだ。
手塚治虫は戦後漫画の壮絶な勃興期を生き延びてきたのだ。「漫画による長く複雑な作劇」を一般化させたのは他ならぬ彼である。ゴルゴが背後に立つものを殴ってしまうように、皆にやめろと言われても作劇の途中でオチャラケを入れてしまうのは、むしろ切実な積年の習慣だったのかもしれない。
今日この間違いを指摘することは簡単である。しかし視点を変えてみれば、望月三起也のような当時最強のマニアがこう描写したということで、当時の共通認識、アメリカ経由で大量流入した戦後西洋文化、さらにはバブル以降ようやくまともに整った日本のイタリア料理のニュアンスを知ることもできる。
鬼滅の刃の文法に手塚治虫的な雰囲気を感じたのでメモ。頻繁なギャグの挿入。手塚の場合作劇を阻害する方向なので今日的評価がよくないが、手塚も超一流のプロなので大昔は「作劇をまぜっかえすギャグ」に効果があったのかもしれず、今後時代の変化による鬼滅の評価が気になる。キャラの魅力の範疇か。