今日思い返して「あれっ?」と思ったのである。自分の中に「惑星が並んだからと言ってそれがどうした」という、かつてはなかった白けた意識がある。毎日望遠鏡を覗いている人でもない限り、本当は概念上の世界でしかないのである。それが30年で少しづつ変わってしまった。TVの星占いは普通に見るのに。
この「ヌンチャクなら凄い打てるかもしれない」というのも当時ヌンチャクが、というかブルース・リーが持っていた呪力である。普通に考えたら逆に打ちにくい。けどどうだっていいんだ。見たいだろヌンチャク打法。凄いに決まってるだろ。だってヌンチャクなんだぜ。
このブルース・リーの呪力と流行のファミコンがマリアージュというか悪魔合体するとこうなる。やっぱり当時大人気の北斗の拳まで混ぜてあるという大サービス。「ああ播磨灘」と「課長島耕作」を混ぜたオレが言うのもなんだけど、こういうのは2つで十分だぞ。わけがわかんなくなるからな。
こういうのもそろそろ単純に科学的視点から揚げ足を取る以外の見方が必要だと思う。この頃(69)、SF的基礎教養みたいなものは本当に欠落していた。それをまさに藤子不二雄のような先人が娯楽作の中で咀嚼、啓蒙したのだ。小学生が平行世界や歴史改変を正しく理解している、2019年の今が凄まじいのだ。
よく考えたらただの高校のテニス部の先輩なのである。世界一強いとかそういうキャラクターでは全くない。現にひろみに抜かされる。んでこの気概よ。気高さよ。こんな人間どこに存在するんだ。ここにいる。これが昭和の少女漫画だ。精神性だけ異次元の高みにいる。人間それくらいのことはできる。