こういう「上の方に居座る貪欲な悪党を退治する」という構図が破綻するのを見たのだ。退治したところで、もっとロクでもない奴が同じ場所に居座り、しかも、火事場泥棒のようにもっと貪欲で無能なのである。豊かな時代がこの痛快な構図を支えていたのだ。飛葉が令和の世を見なくてよかったと思う。
「安保の時代を生き抜いたメンタル」というのを決して侮ってはいけないと思った。それは「文化大革命の時代を生き抜いたメンタル」と同様に、状況に応じた都合の良い変節を正当化し、それ自体を信義のようにして恥じない。きわめて現実的な処世の術なのだ。
(永井豪が日本アニメの歴史を描いた際にありがちな展開)
「良和安彦」という、安彦良和と正反対の属性を持った悪の幹部が登場する。いきなり歴史でも何でもなくなっているが、それが永井豪とダイナミックプロなのだ!
気づいていただろうか? このネタ、アイディアとしては最初から破綻しているのだ。時間を空けて呼び出せばそれで済むのである。それをあえてしない。しないことに気づかせない。そこに、この話の凄みがある。どんどんボロボロになっていくドラえもんを見たいと皆思ってしまう。SFギャグの粋である。