4ページの短編だったが、横山にとって自らの漫画が出版社に採用されるのは初めてのことであり、かなり興奮していた。
そして、これを契機に横山の制作ペースは加速し、手伝いの方も一段と忙しくなっていった。
#横山光輝の青春
【昭和31年8月】
2本の連載漫画を抱える売れっ子作家となった横山は、ここに至りついに上京する決心を固める。
友人の煎塚はこの時も横山の母親から「神戸に残るよう説得して欲しい」と頼まれたが、さすがにそれは無理な相談だと分かっていた。
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長い間にわたって横山の手伝いをしてきた嶋田が、「世話になった礼に」と横山の未発表作品の原稿「三つ子の鉱夫(116ページ)」と「みどりさん(7ページ)」をもらったのはこの時だった。
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嶋田や煎塚と一緒に須磨海岸へ遊びに行った時に、「銀行でも受けてみるわ」と胸の内を明かし、友人たちの「漫画はどうする?」という問いかけに「あれは趣味や」と答えていた。
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【昭和26年】(友人・嶋田、煎塚さんの話)
高校2年生になると、自分たちは横山のために水泳の練習を早めに切り上げて、横山宅へ集まるようになった。
それらの努力の甲斐があってか、以後は「探偵王」などに漫画が掲載されるようになった。
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ちなみに、この高校時代に描いて雑誌に掲載された「すすめジョン君」や「頭のジョン君」の「ジョン」というのは、嶋田のニックネーム「おジョン」から来ている。
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