自らの目的のために他者の命を犠牲にする、そうまでする意志の強さに感動すると宮崎監督は仰っていて、それは漫画版ナウシカに反映されたわけだけどトゥルー・グリッドでは主人公マティの愛馬が最後に死ぬ。毒蛇に噛まれたマティを助けるためにルースターが休ませず、ナイフを突き刺してでも走らせる
「ドラゴンボール」のナメック星編はボール争奪戦のサスペンス。あれも勢力的には全く拮抗していない複数の対立者が生存を賭けた知能戦を繰り広げる。ドラゴンボールはストーリーが単純と言われがちだけど、サイヤ人編からセル編までは映画的なストーリーテリングがよく研究・流用されていると感じる。
「六等星」では、院長選挙の話から始まり選挙での不正が露呈して椎茸先生に白羽の矢が立つ。
「2人のローマ教皇」では、教皇選挙から始まり教会の不正が露呈しホルヘに白羽の矢が立つ。
物語の構造の共通というのはこういうことをいう。全く無関係の作品、題材でも構造が酷似することがある。
物語全体も、ブラックジャックの「六等星」によく似ている。
華々しい院長選挙の影で表舞台を嫌い地道に職務を全うする人格者の椎茸先生は、今作のホルヘと同タイプのキャラクター造型といえる。
氷上のクラウンはヒロイン(?)のいぶきの造型がすごく好きだった。天才型の幼馴染の主人公に成果では勝ってるのにどうしようもなく焦燥感にかられる少女。
反面、主人公にはどうにも興味を持てなかった。
タヤマ先生は『他人の才能に嫉妬するコンプレックス』の描写がとても上手い。読み切りの時から題材は変わっても常にこの要素は色濃く出るので、作者の情念のようなものが滲み出てる気がする。
最近ブラックジャック読んでて思い出したけど、以前ナウシカ読んでてよく似てるコマがあったんですよね。
宮崎さんは影響受けたものがたま~にポッと無意識に出てくることがあるので、このコマは手塚さん的な構図が出てきたコマなんじゃないかと思っている。
「自分が何に怒りを感じるか」というのはとても大事なことで。私は普段は怒ったりすることがほぼないのでこういう機会は貴重。不快な気分にもなったし長期間悩んだりもしたけど、それを自己発見に繋げなくてはと思う。
「オタクあるある」はやっぱりガチオタにしか描けない。例えば初期の「げんしけん」なんかはこの「オタク度による知識の差」というコミュニケーションの表現が物凄く上手い。
ああいう要素が必要だったと思います。
更に、「合わなかった作品」だからといって作品との関係を疎かにするのは私としては愚行。合わなかった作品には無難に面白かった作品以上に熱い感想を誘発させる側面すらある。
合おうが合わなかろうが、その理由を明文化するのが作品・作家に対する敬意であると私は考えている。
特に不登校初めの頃は外出自体が心理的に億劫になる。そこから時間が経つとまた心理状態が変化するんだけど。ローゼンのジュンはその辺りの段階的プロセスも上手く描かれていた。
よく知らないけどあれはやっぱり桃種先生自身にひきこもり経験でもあるのかな?
「不登校」という状況を真面目に掘り下げるなら、本人にとって最も嫌なのは『学校に行こう』と勧めてくる人間達に他ならない。
ローゼンはそこがよくわかっていてジュンよりものりや教師が説得に来る場面で引きこもりの辛さを描いてたのが上手かった。