今は浅香光代の夫(事実婚)としての露出が多い世志凡太。その出自は名門バンドにも所属したジャズマンであり、エンターテイナー。当時はトニー谷やフランキー堺の後継者とも嘱望されれ、プロデューサーとしてもフィンガー5らを世に送り出した。@retoro_mode
「漫才協会」の前身「漫才協団」団員一覧(平成12年)。現在は浅草の東洋館を定席としているが、昭和30年に「漫才研究会」として発足した当時はロキシー劇場(戦前の金龍館。跡地は現在のROX3G)にわずかな日数で間借りする状況だった。@retoro_mode
昭和36年:〈お口の恋人〉が広告に使われ始める
→2月17日新聞広告~
昭和36年:「懸賞1000万円 ロッテ天チクセール」
→4月16日~10月31日募集、11月27日当選発表(日劇)
昭和40年:社史『ロッテのあゆみ』
→〈お口の恋人〉に関する記載なし
昭和53年:社史『ロッテのあゆみ30年』 https://t.co/qGDSyGihcA
紀元2600年=昭和15年3月7~10日、職業野球・東京セネタース結成5周年記念大会。最終日に初の球団歌『セネタースの歌』が披露されたが、半年後には軍部からの圧力により野球用語や球団名が日本語化。東京セネタースも公募により『東京翼軍』に改名した。@retoro_mode
@retoro_mode オールスターゲームでのホームラン競争は日米ともに風物詩となっているが、日本での球宴が初めて行われた昭和12年にも「長打競争」として存在。国内情勢を反映した「手榴弾投げ」や、ストラックアウトのような「二塁的抜き競争」まであった。@retoro_mode
【昭和の野球】オールスターゲームのあけぼの 昭和12年
今年も球宴の季節となったが、その始まりは昭和12年の“オール・スター東西対抗試合”。三試合制の初日、東軍先発の沢村栄治は三塁を踏ませない快投で完封勝利。第二・三試合は西軍が勝って優勝した。本品は初日の入場券。@retoro_mode #蒐集品
名作コント「立会演説会」や「当たり屋」が生まれた『コント55号の世界は笑う!』(昭和43年~45年)。フォンタクトはここでも「一人オーケストラ」を披露。@retoro_mode https://t.co/63NXWs5Mbv
【昭和の野球】巨人唯一の外様・藤本監督の誕生 昭和10年
本品は11月9日の東鉄戦、10日の名鉄戦で配られたメンバー表。実業団相手の巡業で全勝を誓った巨人だったが、藤本監督擁する東鉄にこの日2度目の敗戦。その辛酸と藤本の手腕を高く評価した巨人は、翌年から監督に迎える。@retoro_mode #蒐集品
「赤羽公楽劇場」の広告(昭和25年)。@retoro_mode https://t.co/cvsDDebp1F