三河島駅ほど近くの #珈琲茶館エンゼル 。下町の昼下がり、流れる時間は悠久に感じる。焙煎の香りと秒刻の音が身を包み、心地よさにいつしか微睡む。#純喫茶コレクション
@retoro_mode 試合は17日が降雨のため翌18日に挙行。結果、東京巨人軍が勝利してプロの意地を見せた。この試合の対戦相手、川崎コロムビアからは若林忠志が出場。翌年に大阪タイガースへ入団し、巨人との”伝統の一戦”と呼ばれる礎を築いてゆく。@retoro_mode
【昭和の野球】チャップリンの元秘書がプロデュース 昭和13年
“世界の喜劇王”チャップリンの秘書として18年間支えた高野虎市。日米間の雲行きが怪しくなっていたこの頃、両国間の親善に努めようと高野がプロデュースしたのが、米国女子軟式野球団の招聘だった。本品はその入場券。@retoro_mode #蒐集品
【昭和のテニス】海外プロ初来日~日米国際庭球大会 昭和11年
読売新聞社が4大大会優勝10回のチルデン、同3回のバインズ、女子選手のシャープを招聘。目の当たりにした“メジャー”プレーヤーに観客は酔いしれた。この試合でシャープと対戦した岡田早苗はプロ選手第1号とされる。@retoro_mode #蒐集品
【昭和の野球】巨人唯一の外様・藤本監督の誕生 昭和10年
本品は11月9日の東鉄戦、10日の名鉄戦で配られたメンバー表。実業団相手の巡業で全勝を誓った巨人だったが、藤本監督擁する東鉄にこの日2度目の敗戦。その辛酸と藤本の手腕を高く評価した巨人は、翌年から監督に迎える。@retoro_mode #蒐集品
【昭和の野球】オールスターゲームのあけぼの 昭和12年
今年も球宴の季節となったが、その始まりは昭和12年の“オール・スター東西対抗試合”。三試合制の初日、東軍先発の沢村栄治は三塁を踏ませない快投で完封勝利。第二・三試合は西軍が勝って優勝した。本品は初日の入場券。@retoro_mode #蒐集品
@retoro_mode オールスターゲームでのホームラン競争は日米ともに風物詩となっているが、日本での球宴が初めて行われた昭和12年にも「長打競争」として存在。国内情勢を反映した「手榴弾投げ」や、ストラックアウトのような「二塁的抜き競争」まであった。@retoro_mode
@retoro_mode 全勝を誓ったフィリピン遠征だったが、現地の強豪・カストムズ軍に2敗。このチームの5番・リベラの打棒を評価した巨人は、早々に迎え入れる。来日後のリベラは巨人初の満塁本塁打を放つなど活躍したが、同年で退団。昭和20年、フィリピン軍に身を投じて日本軍と交戦し、戦死した。@retoro_mode
投稿された元写真の白ユニフォーム、キャプションにもあったポロリーズは画家の小林秀美氏がオーナーとのこと。藤子Ⓐ日記にはエラーズと小学館チームとの対戦も書かれており、草野球は「毎週のようにやっていた」そうで。電電公社新潟でエースだったというテラさんも含めて、継続して調べてみます🧐 https://t.co/78ozy6f1b9
【昭和のテレビ】フジテレビ テロップ 『おはようチンパン』 昭和36年
週7日の帯で放送されたこの番組は、多摩動物公園の人気者チンパンジー4匹が登場(演技も多少させたようだ)、“庶民的な生活の中で巻き起こる笑いとペーソスを描く”ものだった。声は熊倉一雄らが当てた。@retoro_mode
住宅地図で調査。昭和37年版ではまだ藤倉電線の運動場、昭和40年版では倉庫が建ち始めている。戦中~終戦直後の一時期は荒廃するも、その後再びグラウンドとしての役割を与えられていたのだ。ちょうどその頃、スポーツライターの越智正典氏がこの地を訪れ、“洲崎球場跡”と書かれた杭を目撃している。