大正12年の日本には既にビーチパラソル文化が入ってきていた。7月12日付『都新聞』、写真は白木屋呉服店での展示(海の旅行展覧会)の様子で、記事は「海岸傘」という直訳を前面に出して紹介している。
大正12年3月の『福岡日日新聞』朝刊の「演芸」欄に、博多劇場で好評を呼ぶオットセイたちの姿を偶然発見した。どのように筋立てたのか『仇を討つ迄』という芝居にオットセイの珍芸を組み入れたらしい。連日の大評判につき、3月9日で芝居本体がはねてもオットセイ芸の披露は3月13日まで続けられている。
この両頭の牛を追って岡山の地元紙『山陽新報』を紐解くと確かに大正12年4月24日付朝刊の記事にいた。ただしこちらでは鳴き声が「嘘を云はない」と聞こえるとし、嘘を言わぬというクダンにより近しいエピソードとなっている。見世物になったとの話はここにはない。
藁人形への釘打ちにこのような作法を持つ地域もあったのか。大正12年6月5日付『都新聞』毎晩一本ずつの釘を打ち、49本を打ち込めば願いが叶うとされていたという。成就寸前に人に見つかってしまったこの場合、どうなってしまったのだろうか。顛末が気になる。
明治37年11月3日付『神戸又新日報』に「神戸の新流行」として楠社(湊川神社)の伊藤博文像に向け口で湿らせた紙を吹き付けて、上手く付けば願いが叶うと言われ始めた話が載っていた。後日の紙面には試した女性の投書(11月7日付)や流行との関連が窺える投稿川柳「…下女の恋」(11月18日付)が載る。 https://t.co/TDkTEsH4w1
この人は「目黒の筍王」ではない(笑)この阿部さんが語った目黒の筍に関する雑学に功労者扱いで出て来る「初代の山路治郎右衛門」が「位牌には筍王と書いてあ」ったという筍王である。わざと桐箱に納め青物市場に出すことでブランド化を成功させた等、いろいろ気になる。大正12年4月24日付『都新聞』
大正12年4月8日付『都新聞』「年下の女を相手に童貞蹂躙の訴へ/日本最初の珍事件」、弁護士の山崎今朝弥が寄せている「自分も三十五の時ある婦人から童貞を破られた」「その時の自分の苦痛」「心の痛みだ」というコメントも踏まえつつ、『日本の童貞』を読んでみねば。
大正12年3月9日付『都新聞』ワップル焼とはいわゆるワッフルのことを言っているのか、その別名が「みかん焼」とはどういうことか、それが気になって未亡人の苦労話が入ってこない。
木下先生の『股間若衆』や『新股間若衆』、井上先生の『ふんどしニッポン』、澁谷先生の『日本の童貞』や『日本の包茎』、そして『オトコのカラダはキモチいい』といったあたりの本を重ね合わせて「男らしさ」とは一体なんぞやと… https://t.co/Ul5SPwrl4x