大正13年7月10日付『都新聞』、関東大震災で損傷し撤去された浅草十二階こと凌雲閣の跡に出来た凌雲座で、異種格闘技戦の興行があったようだ。
大正11年9月の大阪・神戸でのオットセイの興行に関する新聞記事を見ると、調教師について『大阪朝日新聞』欄外記事は「加倉井浅吉」、『神戸又新日報』は「覚来氏」とする。後者は“カクライ”の音にこの字を当ててしまったのだろう。斯界の第一人者たる日本人がおり、帯同していたのは間違いなさそう。
明治40年9月29日付『京都日出新聞』秋の味覚、松茸の東京他への配送を請け負う京都の運送店の広告である。面白いのは冒頭、「松茸運送」の前に「元祖保険」と謳っている点だ。先に拾った、配送中の松茸の盗難紛失が茶飯事だったことの裏返しなのだろう。明治の「松茸が卓に載るまで」事情が気になる。 https://t.co/wbEGhumspY
明治40年9月3日付『京都日出新聞』に四条磧に「人魚の見せ物」が8月末から出ている旨載っていた。5日付紙面の投書欄に「人魚」の委細を投じたありがたい人がおり、臭気の酷い「豹とも鯨とも訳の分らぬ獣皮細工の物」と評している。細工とあるものの、時期的には大阪堺に出たジュゴンの死骸かも知れぬ。
石山女相撲は昭和5年にはハワイへ渡り興行している。『布哇報知』あたりが載せていないかしらん。石山から分かれたのが第一北州倶楽部女相撲協会で(『女相撲民俗誌』43頁)、遠江灘、紅葉川なる所属の女力士二人のプロマイドを載せている。もっとも、六人を一人で背負う紅葉川の顔は見えないのだが。
大正12年7月15日付『都新聞』、高島春雄『動物渡来物語』も明治19年のチャリネの虎の出産以来の珍しい例として紹介する浅草花やしきでの虎の子の誕生が広告に出ていた。
大正12年の日本には既にビーチパラソル文化が入ってきていた。7月12日付『都新聞』、写真は白木屋呉服店での展示(海の旅行展覧会)の様子で、記事は「海岸傘」という直訳を前面に出して紹介している。
大正12年3月の『福岡日日新聞』朝刊の「演芸」欄に、博多劇場で好評を呼ぶオットセイたちの姿を偶然発見した。どのように筋立てたのか『仇を討つ迄』という芝居にオットセイの珍芸を組み入れたらしい。連日の大評判につき、3月9日で芝居本体がはねてもオットセイ芸の披露は3月13日まで続けられている。
この両頭の牛を追って岡山の地元紙『山陽新報』を紐解くと確かに大正12年4月24日付朝刊の記事にいた。ただしこちらでは鳴き声が「嘘を云はない」と聞こえるとし、嘘を言わぬというクダンにより近しいエピソードとなっている。見世物になったとの話はここにはない。
藁人形への釘打ちにこのような作法を持つ地域もあったのか。大正12年6月5日付『都新聞』毎晩一本ずつの釘を打ち、49本を打ち込めば願いが叶うとされていたという。成就寸前に人に見つかってしまったこの場合、どうなってしまったのだろうか。顛末が気になる。