大正11年11月の『都新聞』には甘栗の広告や記事が目立ったので拾っておく。広告の「来々軒」や「日清軒」は当時すでに東京や横浜で多店舗展開していたようだ。「東京で一番甘い」や「元祖甘栗輸入元」にはよそとの差別化が念頭にあったのだろうから、東京ではそれなりに甘栗業者が競っていたのだろう。
大正11年12月6日付『都新聞』、この年の年初に流行したいわゆる「幸運の手紙」について、年末になり再び形を変えて(「邦文ではなく英文」)現れ始めたとしている。
大正11年11月14日付『都新聞』まるで分からない(笑)鳥取では「山の芋は鰻となり鰌はゐもりになる」と早くから言っていた、鳥取市の水道部がその発見を公表した。山芋が鰻と化すという俗説に覚えがある一方、ドジョウがイモリになるとの俗信は知らなかった。ある人が「実物を携へてゐる」も可笑しい。
佐藤清彦『おなら考』が(結論として)おならが禁止されていたという訳ではないことをとうの昔に確認していた(笑)さすがでござる。という訳で、あの3択問題は残念ながら成立しておらんのでは、というのが妥当な見解かしらん https://t.co/B98qe2kmbx
美醜の誘惑(淵さん…!)、不潔の恐怖(油度…!)、恐怖へと誘う子ども、動物への愛着などなど、さまざまなキーワードとともに伊藤潤二ワールドを回遊する。描き込みの緻密さよ…! https://t.co/KZnYsDPJjC
列車給仕界のスターだったのだろうか。大正11年11月5日付『都新聞』、「お召列車には必ず荒井給仕君が乗務」、英語が堪能で「外人間にも『アラヰ』の名が知れ渡つてゐる」という19歳の荒井潔少年。給仕になって四年の日給とチップを貯め上げて、鉄道従事者二万人余の頂に立つ“貯金王”になったという。